米沢城本丸北東隅の水堀と土塁
伊達晴宗の本拠で政宗生誕の城、蒲生氏支配の後、上杉氏が居城
別名
松ケ岬城、舞鶴城
所在地
山形県米沢市丸の内
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 松ケ岬公園・上杉神社
【遺構等】 曲輪、土塁、水堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2001/05/19
2015/10/25
歴史等
米沢城を最初に築いたのは、鎌倉時代の長井氏と言われる。鎌倉幕府の重鎮大江広元の子時広が、源頼朝の命により、この地の地頭となり、長井氏を称し、この地を統治し、約200年の間、この米沢城に居館を構えたと伝えられている。
室町時代の天授6年(1380)長井氏は伊達氏8代宗遠によって滅ぼされ、城はそのまま捨て置かれていた。
戦国時代の永禄年間(1558~1570)になって、15代伊達晴宗(政宗の祖父)が本格的に米沢城を築き、以後50年、3代にわたって領国経営の拠点にした。17代政宗は、この米沢城で生まれたという。
小田原の役後の天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の命により、岩手沢城(後の岩出山城)に移封された。米沢城は秀吉の将である会津若松城主・蒲生氏郷の支城となり氏郷の家臣蒲生郷安が城主となった。
氏郷が死亡後、慶長3年(1598)蒲生秀行が宇都宮に移封されると、 会津若松には越後春日山から上杉景勝が120万石の大封をもって移され、米沢城には第一の家臣・直江兼続が30万石で入封した。
関ヶ原の戦後、徳川家康により、慶長6年(1601)景勝は会津120万石から米沢30万石に大減封され、会津若松城を没収された。景勝は家臣兼続の居城である米沢城に入った。しかし、景勝は古くからいる家臣を浪人させず、家禄を3分の1に減らした。しかし、苦しい中にあっても上杉家中は結束して対処し、城郭の改修、水濠・土塁の築堤、城下の町割り整備をし現在の市街地の礎となっている。
米沢城には天守閣はなく、本丸の高台に御三階櫓ニ基を建てた。また本丸には藩祖上杉謙信をまつる御堂を建て、米沢藩の精神的支柱とした。景勝が入部してから、明治2年(1869)版籍奉還するまでの268年間、米沢城は上杉氏の居城として続いた。
寛文4年(1664)、3代綱勝が27歳の若さで跡継ぎを決めないまま急死し、断絶の危機に面したが、幕府の実力者保科正之の温情もあり、禄高を半分の15万石に削られ、吉良上野介義央の子・綱憲を養子とすることが認められた。しかし、改易処分は免れたとはいえ禄高を15万石に削られたことは死活問題であった。それでも米沢藩は人員整理を行わず、俸禄を一律半分にすることによって対処した。そのため下級武士は、城下を離れて農耕による自給自足生活を送った。一方、5代藩主になった綱憲は藩の財政事情を顧みることはなく、台所は火の車となり、8代藩主重定は、困窮に耐えかねて米沢15万石を幕府に返上しようと考えたほどであった。
しかし、重定の跡を継いだ治憲(鷹山と号す)は徹底的な倹約と産業開発によって藩制を刷新し、財政は黒字に転じた。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』
現況・登城記・感想等
米沢といえば上杉氏。上杉氏といえば上杉謙信・上杉鷹山であり、上杉景勝・直江兼続ですね。また吉良上野介とも関係があります。さらには伊達政宗や蒲生氏郷とも深い関係があり歴史的に非常に興味深い所です。
米沢城は、現在は松岬公園となって上杉神社が鎮座し、上杉謙信、鷹山、上杉景勝と直江兼続の銅像がたてられていますが、遺構といえば、本丸周囲の水堀くらいしか残っておらず、寂しい感じがします。
とはいえ、その非常に幅広い水堀と土塁の姿はなかなか美しいですね。
(2001/05/19、2015/10/25登城して)
ギャラリー
米沢城下鳥瞰図(現地案内板より) ~画面をクリックにて拡大~
当鳥瞰図は、享保10年(1725)の「米沢城下絵図(米沢市上杉博物館蔵)」をもとに、イラスト板垣真誠氏、監修横山昭男氏によって制作したものだそうです。
水堀(北東隅から東面にかけて)
米沢城の遺構は、本丸周囲をめぐる水堀と土塁くらいしか残っていませんが、なかなか美しい光景です。
水堀(北東隅から北面にかけて)
舞鶴橋(東参道)から登城
広い駐車場に車を停め東参道から本丸内へ入城しました。「毘」と「龍」の幟が・・・。自ら毘沙門天の化身と称し、越後の龍と称された上杉謙信です。
上杉神社
東参道から登城すると正面に上杉神社が鎮座しています。明治9年、上杉謙信・上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立されました。明治35年に別格官幣社に指定され、このとき祭神は謙信のみとなり、鷹山は摂社に祀られ松岬神社となりました。
御堂跡
東参道から登城すると、左手上に御堂跡があります。以下、説明板より
江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。謙信は天正6年(1578)3月13日、越後春日山城で逝去、享年49であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている。 その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津120万石、米沢30万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。 謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた。 明治4年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同9年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。
上杉謙信像
上杉景勝と直江兼続の像
上杉鷹山の像
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
上杉謙信公家訓16ヶ条の碑
一.心に物なき時は心広く体泰なり
一.心に我なき時は愛敬失わず
一.心に欲なき時は義理を行う
一.心に私なき時は疑うことなし
一.心に驕りなき時は人を教う
一.心に誤りなき時は人を畏れず
一.心に邪見なき時は人を育つる
一.心に貪りなき時は人に諂うことなし
一.心に怒りなき時は言葉和らかなり
一.心に堪忍ある時は事を調う
一.心に曇りなき時は心静かなり
一.心に勇みある時は悔やむことなし
一.心賤しからざる時は願好まず
一.心に孝行ある時は忠節厚し
一.心に自慢なき時は人の善を知り
一.心に迷いなき時は人を咎めず