羽前 米沢城(米沢市)

伊達晴宗の本拠で政宗生誕の城、蒲生氏支配の後、上杉氏が居城

別名

松ケ岬城・舞鶴城

所在地

山形県米沢市丸の内

形状

平城

現状・遺構等

現状:松ケ岬公園・上杉神社
遺構等:曲輪、土塁、水堀、碑、説明板 

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2001/05/19

歴史等

米沢城を最初に築いたのは、鎌倉時代の長井氏と言われる。鎌倉幕府の重鎮大江広元の子時広が、源頼朝の命により、この地の地頭となり、 長井氏を称し、この地を統治し、約200年の間、この米沢城に居館を構えたと伝えられている。
室町時代の天授6年(1380)長井氏は伊達氏8代宗遠によって滅ぼされ、城はそのまま捨て置かれていた。
戦国時代の永禄年間(1558~1570)になって、15代伊達晴宗(政宗の祖父)が本格的に米沢城を築き、以後50年、 3代にわたって領国経営の拠点にした。17代正宗は、この米沢城で生まれたという。
小田原の役後の天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の命により、岩手沢城 (後の岩出山城)に移封された。米沢城は秀吉の将である会津若松城主・ 蒲生氏郷の支城となり氏郷の家臣蒲生郷安が城主となった。
氏郷が死亡後、慶長3年(1598)蒲生秀行が宇都宮に移封されると、 会津若松には越後春日山から上杉景勝が120万石の大封をもって移され、 米沢城には第一の家臣・直江兼続が30万石で入封した。
関ヶ原の戦後、徳川家康により、慶長6年(1601)景勝は会津120万石から米沢30万石に大減封され、会津若松城を没収された。 景勝は家臣兼続の居城である米沢城に入った。しかし、景勝は古くからいる家臣を浪人させず、家禄を3分の1に減らした。しかし、 苦しい中にあっても上杉家中は結束して対処し、城郭の改修、水濠・土塁の築堤、城下の町割り整備をし現在の市街地の礎となっている。
米沢城には天守閣はなく、本丸の高台に御三階櫓ニ基を建てた。また本丸には藩祖上杉謙信をまつる御堂を建て、米沢藩の精神的支柱とした。 景勝が入部してから、明治2年(1869)版籍奉還するまでの268年間、米沢城は上杉氏の居城として続いた。
寛文4年(1664)、3代綱勝が27歳の若さで跡継ぎを決めないまま急死し、断絶の危機に面したが、幕府の実力者保科正之の温情もあり、 禄高を半分の15万石に削られ、吉良上野介義央の子・綱憲を養子とすることが認められた。しかし、 改易処分は免れたとはいえ禄高を15万石に削られたことは死活問題であった。それでも米沢藩は人員整理を行わず、 俸禄を一律半分にすることによって対処した。そのため下級武士は、城下を離れて農耕による自給自足生活を送った。一方、 5代藩主になった綱憲は藩の財政事情を顧みることはなく、台所は火の車となり、8代藩主重定は、 困窮に耐えかねて米沢15万石を幕府に返上しようと考えたほどであった。
しかし、重定の跡を継いだ治憲(鷹山と号す)は徹底的な倹約と産業開発によって藩制を刷新し、財政は黒字に転じた。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「日本百名城・中山良昭著 (朝日文庫刊)」参照』

現況・登城記・感想等

米沢城は非常に幅広い水堀があるのが特徴である。現在は松岬公園となって上杉神社があり、上杉謙信の銅像があるが、 遺構はほとんどなく、寂しい感じがする。
当日は団体旅行で行ったため、宝物殿(稽照殿)に入ることが出来なかったが、ここには謙信や直江兼続の鎧等見るものが多いようである。
何といっても米沢には非常に興味ある歴史が多い。米沢といえば上杉。上杉といえば上杉謙信・上杉鷹山であり、上杉景勝・直江兼続である。 また吉良上野介とも関係がある。それだけでなく、米沢は伊達政宗や私の大好きな戦国大名・蒲生氏郷とも深い関係があり、 東北の中では歴史的に非常に興味深い所である。
登城当日は、火縄銃の試し撃ち?が行われていたが、耳をつんざくような大きな音には驚いた。
(2001/05/19訪城後)

ギャラリー

上杉謙信の像

上杉鷹山の像
なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり

満々と水を湛えた堀

お馴染みの毘沙門天の旗

火縄銃の試し撃ちの儀式?
耳をつんざくデカイ音にびっくり

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