阿倉川城跡とされる海蔵川左岸
室町時代、舘氏代々の城
所在地
三重県四日市市東阿倉川
【アクセス】
①海蔵小学校(かいぞうしょうがっこう)の南東約200m近辺が城跡と考えられる。
海蔵小学校:四日市市東阿倉川578−1、電話059-330-0032
②当初或いは別の説による所在地:四日市市西阿倉川836、浄覚寺
浄覚寺:四日市市西阿倉川836、電話059-331-5511
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 宅地(当初の城或いは別説は浄覚寺)
【遺構等】 なし
満足度
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歴史等
阿倉川城の城主・舘氏は100騎に足りない小土豪で、その館(城館)は極めて小規模なもので、屋敷の周囲は北・東・南は土塁で囲まれ、西側には堀を有したようである。
屋敷内には若党や下人を住まわせ、城の周囲に家臣の居をおき、一旦、戦さになるとこれらが結束して戦った。非常の場合は農民も雇い入れて参戦させたようである。
阿倉川城は、東阿倉川に「小字城の腰」という地名があるので、その付近と思われるが、赤堀(羽津)氏の羽津城とは非常に近く、その接触は日夜激しかったようである。
元亀3年(1572)6月、羽津城主6代赤堀右京介(羽津近宗)が縁者の茂福城目代山口四郎右衛門(滝川一益の臣)に料理を振舞いたいと謀られて毒殺された。
その不幸に乗じて舘氏は羽津に侵攻したが、羽津城主赤堀氏の一族である浜田城浜田城主浜田(田原)遠江守が阿倉川滅亡を期して、翌天正元年(1573)に侵攻したのが「阿倉川合戦」である。
その「阿倉川合戦」に阿倉川方100騎とあるが、当時の東阿倉川・西阿倉川の人口に照して考えると、これは家臣だけではなかったと思われる。
尚、舘氏の祖先・舘太郎貞康が越中から来て、海蔵の地に城館を築いたとあるのは淨覚寺(西阿倉川)の処ではないかと思われる。
『海蔵小誌より』
現況・登城記・感想等
阿倉川城址とされている海蔵川(かいぞうがわ)の北側(近鉄名古屋線の西側)辺りは、子供の頃は田んぼしかなかったが、今ではすっかり住宅地になっています。
ただ、城跡とされる辺りは、非常に低地で、城の立地には向かないような気がするのだが、沼地に浮かぶ城であったのかも?
尚、海蔵小誌によると、舘氏の祖先・舘太郎貞康が越中から来て、最初に海蔵の地に城館を築いたのは、500mほど西の西阿倉川の浄覚寺の処であるという。 一方、そこが城跡だという説もあり、同寺境内の墓地には阿倉川城主と同じ館姓の墓がいっぱいです。
(2022/01/26)
【小話】
今回(2022年1月)、急用があり実家(四日市市東阿倉川)へ行った際に、市役所の出張所(私の出身校である海蔵小学校のすぐ西)に寄ったら閲覧用として『海蔵小誌』なるものが置いてあり、そこに阿倉川城や羽津城に関する寄稿があったので、一部分だけスマホで撮影して、今回、阿倉川城の歴史等について改正しました。
尚、驚くことに、海蔵小誌は我が家の隣家(我が家の分家で地元では新家という)のS吾氏(故人)や内田氏(東阿倉川陣屋にコメントを戴いた内田博司氏の叔父)などの調査・研究した郷土史などを元に、S吾氏や内田氏など5名で編纂・編集したものでした。
また、当誌は、当時、海蔵地区のほぼ全軒が購入したもので、我が家にもあるはずなのですが、何処にいったのやら・・・(/。ヽ)。
次回、帰省した時に捜してみますかねえ。
(2022/01/26)
ギャラリー
城跡の南を流れる海蔵川堤防の桜並木(2011/4/17撮影)
堤防北側(写真左側)が城跡とされるが、今では遺構らしきものは全く残ってなく、海蔵川左岸堤防の桜並木が一番の見どころです。
当初の城跡或いはもう一つの城跡説の浄覚寺(2014/3/28撮影)
当寺の境内にある墓所には、阿倉川城の城主と同じ館姓の墓がいっぱいたっています。また、一方の城跡とされる東阿倉川で発見された五輪塔数基が同寺に保管されているそうです。