1998年に発見され、1300年以上の眠りから覚めた石垣
白村江の戦で大敗し、唐・新羅の来攻に備え造られた朝鮮式山城
読み方
やしまのき
処在地
香川県高松市屋島東町、屋島西町
【アクセス】
屋島寺からケーブルカーの山上駅(廃駅)に向かう道を500mほど向かうと右手に、新しい道(それと思って見ないと、なかなか気が付かない)があり、入っていくと城跡がある。
屋島寺:高松市屋島東町1808、電話:087-841-9418
形状
朝鮮式山城
現状・遺構等
【現状】山林
【遺構等】石垣、城門、説明板(屋島展望台に)
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/04/30
歴史等
屋島は原始・古代以来備讃瀬戸の交通の要であり軍事上の要衝であった。
天智2年(663)、百済救援のため、朝鮮半島に出兵した日本軍は「白村江の戦」で唐・新羅軍に大敗した。
大和朝廷は、唐、新羅軍の侵入に備えて築城。天智4年(665)に長門城(山口県)、大野城・椽城(福岡県)を、天智6年(667)にはここ屋島城と大和に高安城を築いた。
このことは『日本書紀・天智天皇6年(667)11月の条』に「讃岐国山田郡の屋嶋城・・・・を築く」とあるように、白村江の敗戦により対外的危機感が高まるなかで、屋島にも朝鮮式山城が築かれたことが明らかにされている。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「屋島パンフレット」、「屋島説明板」、「大野城址説明板」参照』
現況・登城記・感想等
屋島城は今回の旅で、果たしてその遺構(城門跡)のある場所に辿り着けるかどうか一番心配であったと同時に、最も興味のある城跡の一つでもあった。
取り敢えず、既に廃駅となっているケーブルカーの山上駅に向かったら、以前はお店をやっていたと思われ、しかもまだ人が住んでいるような家屋があったので、駄目元で「最近、屋島城の遺構が見つかったと聞いたのですが、どう行けばいいのでしょうか」と尋ねてみたら、幸いにも、その方が存じており教えてくれた。
それは、屋島寺から山上駅に向かう道を500mほど来た所の右側に、新しい道(それと思って見ないと、なかなか気が付かない)があり、入っていくと古代の遺跡があった。
それはまさに、1300年以上もの眠りから覚めたばかりであるかのように、石も土も、薄いピンク(薄い橙色?)に近いようなきれいな色をしていた。本当に感激した。
この遺跡からは、眼下に高松の町並みが見えた。少し降りて、その遺跡を見上げると、一部だけ黒っぽい石垣が見えた。
この遺跡は、高松市在住の平岡岩夫さんという方が、2年もの歳月をかけた執念のすえ1998年1月13日に発見したものらしいが、道も無く、木々が生い茂る山中で、おそらくこの黒っぽい石垣だけが、少しだけ顔を覗かせていたのであろう。それにしても、よく見つけたものである。そのお陰で、大昔の姿が一部垣間見ることが出来る。その執念には、本当に頭が下がる。平岡さん、ありがとうございます。
2008年度から4年間で、城門の石積みを解体復元し、2012年度には一般公開する旨、高松市教育委員会が発表したと聞く。是非、また訪れてみたいものである。
尚、屋島城の遺構としては、北嶺にも大正時代に発見された石塁等があるそうだが、今回は、この最近発見された南嶺の城門だけにした。
(2007/04/30登城して)
【NHK総合「ブラタモリ・高松編」を観て】
懐かしい高松城(玉藻城)が出てくるようなのでNHKの「ブラタモリ高松編」を観ていました。
すると、全く想定していなかった「屋島城(やしまのき)」の現在の様子が突然映し出されました。
「屋島城」へ登城したのは、2007年のことですから、もう15年も前のことになりますが、その時は、まだまだ発掘中で、その場所を特定するのさえ難しくて、それを発見した時は本当に感激したと同時に誇らしく感じたのをはっきり憶えています。
それが、今回のブラタモリでいきなり全体像が映されたのです。勿論、修復・復元されて15年前とはすっかり変わっていましたが、やっぱり見応え満点でした。
尤も、急に映し出されたので、気に入った写真を撮ることはできませんでしたが、何とか何枚か撮れました。
再登城したいものですが、なかなか機会はないと思われるので、テレビに映された現在の屋島城跡の写真の追加をしました。
(2022/02/26)
ギャラリー
このブルーシートに覆われた薄いピンクの土と石積みが見えた時は本当に感激した。
少し降りて、その遺跡を見上げると、一部だけ黒っぽい石垣が見えた。木々が生い茂る山中で、おそらくこの黒っぽい石垣だけが、少しだけ顔を覗かせていたのであろう。それにしても、よく見つけたものである。
下のほうまで降りて行って、できるだけ城跡の全体像を撮りたかったのですが、私のカメラではこれが精一杯でした(;>_<;)。