島に繋がる堤防手前から眺める四郎ケ島
嘉永6年(1853)佐賀藩によって築かれた台場
読み方
しろうがしまだいば
所在地
長崎県長崎市神ノ島町3丁目
【アクセス】
長崎市中心部から長崎湾の西側を通る国道202号線を南西へ進み、飽の浦から左手に三菱重工病院を見て県道236号線へ入り南西へ進みます。その後も神ノ島町に向かって長崎湾西岸を道なりに5~6kmほど進むと、最西端(左前方)に堤防で繋がった四郎ヶ島台場が見えてきます。さらに、道をそのまま進むと駐車場があります。
所要時間
今回の見物時間は20分強でした。
形状
台場
現状・遺構等
【現状】 小島(藪)~国指定史跡
【遺構等】 石垣(石塁)、砲座跡、井戸、石造りのトンネル(通路)
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2019/11/23
歴史等
幕末になると外国船の出没が頻繁になり、長崎港警備の強化が図られました。
そのうち、四郎ヶ島台場跡は佐賀藩主鍋島斉正(のち直正)によって築造されたもので、長崎台場跡23箇所のなかでも最も新しい時期のもので、長崎港外の端部、神ノ島地区から西南約200mの海上に位置する、東西約220m、南北約120mの小島にあります。
佐賀藩は、嘉永3年(1850)、幕府に申し出て、自領の伊王島・神ノ島に自費による台場の造営を開始した。四郎ヶ島台場は、島内部を掘り抜いて砲台の前面に石や土手で胸壁を築き、海上を埋め立てて神ノ島とつないで同6年(1853)に完成しました。
築造に際しては、西洋式築城技術を用い、円弧形や稜堡形の胸壁を採用し、土塁を設置するとともに、150ポンド砲2門をはじめとする洋式大砲の導入を図った点が従来にない特色です。
『長崎市ホームページ・長崎台場跡 魚見岳台場跡 四郎ヶ島台場跡-長崎市、長崎県ホームページ・長崎県の文化財 長崎台場跡 魚見岳台場跡 四郎ヶ島台場跡より』
現況・登城記・感想等
四郎ケ島台場は神ノ島町の最西端の沖に浮かぶ小さな島「四郎ヶ島」に築かれた台場で、石垣で築かれた堤防によって陸続きとなり歩いて行くことができます。ここは、磯釣り・防波堤釣りの名所のようで、多くの釣り客がいました。
堤防を進んでいくと、島の周囲を石垣(一部高石垣)で築かれているのが見えてきます。小さな島とはいえ、島全体を要塞化した、かなり堅固なものであったようです。 四郎ケ島台場跡には、この波打ち際の高石垣の他にも、砲座跡や石造りのトンネル(通路)や井戸など、多くの遺構がそのまま残っているらしいのですが、残念ながら台場内は釣り客によると思われる獣道?はあるものの、ほとんどが荒れ果てた藪になっており、ジャングルのような中を彷徨うしかなく藪の中に突入するのは諦めました。(一昔前なら当たり前のように入って行ったんですがねえ。)
平成26年3月には国指定史跡になったそうです。ならば、せめて普通に歩いて散策できる程度には整備して欲しいものですよね。
(2019/11/23登城して)
ギャラリー
四郎ヶ島全景 ~画面をクリックにて拡大画面に~
長崎湾西岸の道を進み神ノ島町の最西端に到着すると、石垣造りの堤防が延びた先に亀の形(左が頭、右が甲羅)をした四郎ヶ島が見えてきます。この島に四郎ヶ島台場は築かれていたのです。
四郎ヶ島台場へ向かう
駐車場へ車を停めて、林の中の小道を進み四郎ヶ島台場へと向かいます。
石垣
小道の左手には多くの石垣が残っているのが確認できます。
堤防道手前から四郎ヶ島を
四郎ヶ島へは堤防によって陸続きとなり歩いて行くことができます。この堤防は新たな石垣で築かれていますが、元々、石垣造りであったようで、かつての石垣が崩れ落ちた石が両側に転がっています。尚、この付近は、磯釣り・防波堤釣りの名所のようで、多くの釣り客を見かけました。
高石垣
右(亀の甲羅)側の島の入口付近の高石垣は良好に残っています。
崩れた石垣
高石垣の右奥の石垣はほとんど崩れてしまっています。
崩れた石垣
左(亀の頭)側の島の入口周辺の石垣はほとんど崩れてしまっています。
四郎ヶ島へ上陸、突入
四郎ヶ島は釣り客によると思われる獣道?はあるものの、ほとんどが荒れ果てた藪になっており、ジャングルのような中を奥へ向かっていきました。
石積み跡
道の脇の所々に石積み跡と思われる石が確認できますが、あまりにも荒れ果てた藪になっており突入するのは諦めました。一昔前なら当たり前のように入って行ったんですがねえ( ̄ー ̄;
島の裏側の石垣
島の裏側の石垣は良好に残っています。往時は、島の全周囲を石垣(一部高石垣)で築かれていたと思われます。四郎ヶ島は小さな島とはいえ、島全体を要塞化した、かなり堅固なものであったようです。