岩代 向羽黒山城(会津美里町)

藪に覆われてしまっている本丸跡

黒川城主・芦名盛氏の隠居城、広大な城址が残る

読み方

むかいはぐろやまじょう

別名

岩崎城

所在地

福島県大沼郡会津美里町、白鳳山公園(会津本郷焼資料館の対面の菓子舗一貫堂の横の道を2km)
会津本郷焼資料館:会津美里町瀬戸町3208、電話0242-56-4637

所要時間

今回は、時間がなくて本丸跡と二の丸跡、三の丸跡へ行っただけなので見学時間は1時間だけでした。本来なら丸一日かけて見て廻りたい城跡です。

形状

山城(標高408.8m、比高183.7m)

現状・遺構等

【現状】山林(白鳳山公園)
【遺構等】曲輪、土塁、石垣、横堀、竪掘、櫓台、標柱、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2008/09/30

歴史等

向羽黒山城は、黒川城(後の会津若松城)を本拠とし、 主に会津地域を支配していた芦名盛氏によって築城された。
白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)の主に岩崎山の全域と羽黒山の一部に広がっている。
芦名盛氏は家督を息子の盛興に譲り、隠居の城として向羽黒山城を築いた云われる。そして、天正3年(1575) に盛興が亡くなったため盛氏は再び黒川城に戻り、 向羽黒山城は廃城になったとされる。
しかし、その後、会津を支配した伊達氏や蒲生氏、上杉氏の時代にも城として機能していた可能性は十分に考えられ、城の設備がかなり厳重で、 何らかの手を加えられているようである。
また、向羽黒山城跡は規模・質ともに東北地方で屈指の城跡であり、保存状態も良いことから、今後の発掘調査の実施などにより、 東北の山城の特質や築城技術を解明するための有力な資料になるといっても過言ではない。
『現地(会津本郷焼資料館の対面の)説明板より』

現況・登城記・感想等

向羽黒山城は、東北地方屈指の大規模な城であるだけあって、曲輪の数もとんでもなく多く、丸1日かけても見て廻るのは難しいほどだ。
向羽黒山城の縄張りは、岩崎山山頂のある南側に本丸を置いた連郭式・梯郭式を併用した複雑な縄張りであるが、大きく分けて本丸のある「1曲輪群」と現在は展望公園となっている中腹の二の丸を中心とした「2曲輪群」、さらに、その北側の岩崎山と羽黒山との鞍部を中心とした「3曲輪群(屋敷群)」からなる。
今は2曲輪(二の丸)下まで車で行けるが、城跡への入口・会津本郷焼資料館の前からは何と2kmもある。
1曲輪と2曲輪間の往時の堀切道(現在は車道になっている)を過ぎてすぐの所に駐車場がある。堀切の南側の山上が1曲輪(本丸)で、 北側の高台上が2曲輪(二の丸)である。
2曲輪(二の丸)は、展望公園として綺麗に整備され、遠く山裾に会津若松城も見えるようだが、 はっきりとは見えなかった。
1曲輪(本丸)へは、趣きのある九十九折の道を登って行くが、途中喰い違い虎口が何箇所もあり、枡形虎口のようになっている虎口もある。
1曲輪(本丸)跡は、あまり広くはなく長軸40m弱ほどだ。整備が行き届かないのか結構な藪で、短軸はあまりの藪で入って行く勇気がなかった。 また山頂にあるにも関わらず、木々に遮られ眺望も良くなかった。
尚、途中、3曲輪(三の丸)横を通るが、3曲輪(三の丸)跡は完全な平坦な削平地にはなっておらず、広々とした牧場のようだった。
結局、向羽黒山城は、あまりにも規模が大きすぎて、ほんの一部しか廻れず、城郭全体を把握できないままの下城となってしまった。
多くの遺構が良好に残っているようなので、今後、発掘調査が進められて、城跡の多くが整備されたら満足度満点(★★★★★)の城跡になるだろう。
その時には、是非、再登城したいものだが、果たして再登城することは出来るでしょうかねえ??
(2008/09/30登城して)

向羽黒山城は大規模な上、非常に複雑な縄張なので縄張図なしで紹介するのは難しいのですが、今回、会津美里町役場から公式サイト(ホームページ)にPDFで紹介されている縄張図の使用許可を戴いたので、13年前に登城して以来、まだ再登城はかなっていませんが、13年前の登城時を想い出しながら大幅にサイトの修正掲載しました。
ここにきてコロナ感染者数が大幅に減少していますが、世界的にみるとまだまだ油断できる状態ではありません。世の中がもっと安心できるようになったら、たっぷり時間を掛けて再登城し、さらに修正して掲載し直したいものです。
(2021/11/27)

ギャラリー

【向羽黒山城の縄張図(会津美里町役場ホームページより)】
向羽黒山城の縄張りは、岩崎山山頂のある南側に本丸を置いた連郭式・梯郭式を併用した複雑な縄張りである。尚、縄張図の使用は会津美里町役場より使用許可を戴いてます。
向羽黒山城縄張図

【1曲輪群、2曲輪群、3曲輪群】
向羽黒山城は大きく分けて岩崎山山頂部にある本丸のある「1曲輪群」と現在は展望公園となっている中腹の二の丸を中心とした「2曲輪群」、さらに、その北側の岩崎山と羽黒山との鞍部を中心とした「3曲輪群(屋敷群)」からなる。
向羽黒山城縄張図1

【向羽黒山城跡への入口】
城跡入口に説明板が設置されている。今は、車で行けるものの、2曲輪下へは、正面のこの道を約2kmも登って行くことになる。
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【3曲輪(三の丸)】
途中、右手に3曲輪の案内板があり入って行くと、まるで見晴らしの良い牧場のようだ。説明板によると、「ここは、永禄4年(1561)、主に馬の訓練場として造られたところで、西北の見張りもよく、望楼や指揮陣屋などが併設されていた」とある。な~るほど!道理で・・・。
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【1曲輪と2曲輪間の大堀切】
大堀切(堀切道)は今では車道になっている。
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駐車場から大堀切を
往時の堀切道を過ぎてすぐの所に駐車場がある。堀切の南側(写真右側)の山上が1曲輪(本丸)で、 北側(写真左側)の高台上が2曲輪(二の丸)であるが、説明板によると、ここには1曲輪へ入る門があったそうだ。尚、左手前の階段は2曲輪へ登る石段である。
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2曲輪(二の丸)への石段
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【2曲輪(二の丸)】
2曲輪(二の丸)への虎口

ここには門があったそうだ。また、説明板によると「坂道部分に石積石垣がある」と書かれていたが、いくら探しても見付からなかった。
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2曲輪(二の丸)
2曲輪は展望公園として綺麗に整備されている。
「この2曲輪は、実質的には近世の本丸にあたる所と考えられ、この山城の中でも中心となる主殿のような建物があった。1曲輪の険峻さと比べ、曲輪取りも広く、展望性に富んでいて、飲料水を確保する水の手曲輪も近くに有り、生活機能が重視されている。(説明板より)」
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2曲輪(二の丸)からの眺望
2曲輪からの眺望は非常に良く、展望案内板によると、磐梯山の山裾には会津若松城も見えるらしいが、写真ので指した建物がそれだろうか??
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展望案内板
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三日町口虎口
二の丸の北西部には三日町口虎口があり、「蘆名盛氏段階から重要な虎口であり、三日町は町屋の跡です。天正時代に大きな外桝形に改修され、進むと石積み・石垣のある内桝形の門があります。」と書かれた説明板が設置されていた。しかし、虎口の外側は石段になっており下りて行くと桝形らしき跡があったが、それが外桝形跡だろうか?
尚、内桝形と門は全く分からなかったが、虎口の内側(二の丸上)に丸馬出のように整えられて植えられたツツジは内桝形を示しているのだろうか?
内桝形跡?
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虎口下の石段
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外桝形?
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【1曲輪(本丸)】
1曲輪(本丸)は、標高408.8mの山頂にある。曲輪の東南は大川畔まで169mの絶壁で、他は土塁や空堀で厳重に固められた詰の城である。この山城の象徴的な「天主矢倉(天守櫓?)」もあったと考えられ、曲輪東北部には櫓台状遺構が現存する。(説明板より)
1曲輪(本丸)への登城口
登城口には一曲輪に関する説明板が設置されている。後ろの虎口から登城する。
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1曲輪(本丸)への登城道
九十九折の登城道は何とも趣きがあり、気持ちよく登って行ける。
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虎口
1曲輪(本丸)への登城道には、途中何箇所も虎口を通ることになる。喰い違い虎口が多いが、ちょっとした枡形虎口のようになっている虎口も見られる。
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空堀
途中、空堀らしきものに何箇所か出会うが、大変な藪で分かり辛い。
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ここは右側は空堀、左側は急崖(一部掘られたような痕跡も)になっており、土橋のようになっている。
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1曲輪(本丸)への虎口
この本丸手前の両側も空堀だったらしく、窪みになっていた。
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1曲輪(本丸)
1曲輪(本丸)跡は整備が行き届かないのか結構な藪だ。あまり広くはなく、長軸40m弱ほどだ(短軸は藪で入って行く勇気がなかった)。また木々に遮られ眺望も良くない。
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天守櫓台跡?
1曲輪(本丸)跡の北東部がちょっと高く土塁のようになっていたので、藪の中を恐々入っていったら、この辺りだけは、眺望がやや開け、ベンチが設置されていた。多分、ここが一曲輪登城口の説明板にあった「天守櫓(天主矢倉)」の櫓台状遺構であろう。
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