筑前 元寇防塁 姪浜地区(福岡市)

埋め戻された向浜地区の防塁遺構の上に立つ石碑

肥前国が分担した地区の元寇防塁、発見・調査後埋め戻し保存がされている

別名

石築地

所在地

【脇地区】 福岡県福岡市西区小戸1丁目35-3
【向浜地区】 福岡県福岡市西区小戸3丁目57小戸公園

形状

防塁

現状・遺構等

【現状】 住宅街、小戸公園など
【遺構等】 石碑、説明板

満足度

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訪城日

2019/11/25

歴史等

13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、文永11年(1274)博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。
幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、建治2年(1276)3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。
防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。
この姪浜地区の元寇防塁は肥前国が担当して、西の十郎川から小戸を経て愛宕山に至る区間に築きました。
弘安4年(1281)元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役)。
元寇防塁は、昭和6年(1931)、国の史跡に指定され、保存されています。
『現地説明板他より』

現況・登城記・感想等

姪浜地区の元寇防塁跡は、脇地区(小戸1丁目)と向浜地区(小戸3丁目)の2ヶ所で発見されています。
脇地区は、昭和54年(1979)に発掘調査を実施し、基底部しか残っていないものの幅4mで砂岩が積まれていた状況を確認しているそうです。
一方、向浜地区は、大正10年(1921)に内務省の考査官が現地視察し、石塁を確認したとされているが、詳細は不明ですまた、昭和はじめの調査では、防塁の構造は前面を石積みし、後方を粘土で固めていたと報告されています。その後昭和30年(1955)の台風によって姪浜一帯の海浜が浸食された際に石塁が崩壊したという記録が残っているそうです。
現在は、どちらも芝を貼った高まり状に埋め戻し保存が行われていて、元寇防塁は完全に埋もれており、石碑と説明板が設置されているだけだというので、向浜地区だけしか訪れませんでした。
(2019/11/25訪れて)

ギャラリー

元寇防塁位置図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
元寇防塁の遺構は、現在、西から今津、今宿、生の松原、姪浜、西新、地行、箱崎の7ヶ所に確認されているようです。
史跡元寇防塁位置図

向浜地区の防塁跡が埋め戻された高み?
IMG_1410

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