上野 名胡桃城(みなかみ町)

本丸と二の丸間の堀切と土橋上に復元された木橋

秀吉に「小田原の役」の口実を与えた「名胡桃事件」の舞台

所在地

群馬県利根郡みなかみ町下津(旧月夜野町)
住所を目指して行けば、至る所に名胡桃城址への案内板があるので、すぐ辿り着けると思います。

形状

崖城(連郭式山城)

現状・遺構等

【現状】 群馬県指定史跡
【遺構等】 曲輪、土塁、物見台、空堀(堀切)、土橋、虎口、石積み(復元)、木橋(復元)、土塁(復元)、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2001/08/17
2006/09/30
2016/10/28
2021/10/31

歴史等

名胡桃城は沼田城の支城として、明応年間(1492~1501)に沼田景久の三男・名胡桃三郎景冬が築いたというが定かではない。
戦国末期には上杉氏・武田氏・後北条氏の三氏が沼田攻略のための要衝として争奪を繰り返した。天正8年(1580)正月、真田昌幸は沼田城を攻めるにあたって、利根川の渡河点警護と沼田城攻めの前線基地とするために、上杉方の名胡桃城を奪取し、鈴木主水を名胡桃城代とした。
天正17年(1589)8月、関白豊臣秀吉は沼田領の3分の2を後北条領とし、名胡桃を真田領とする裁定を下したが、同10月、後北条方の沼田城代・猪俣邦憲の謀略により名胡桃城が奪取され(謀将・真田昌幸が仕向けたとの説もあるようです)、城将・鈴木主水は割腹した。
この名胡桃事件に激怒した秀吉は、翌11月21日、昌幸に対して後北条氏に対する厳罰を約束する一方、24日付けで後北条氏の当主・氏政に対し征討軍の派遣を通告した。世に知られる秀吉の宣戦布告状である。ここに秀吉自らが総指揮をとって、関東・奥州平定軍をおこすことになり、天正18年(1590)、小田原の役が勃発した。
小田原城開城後は沼田全域が真田氏に与えられた。沼田領の安泰とともに名胡桃城はその役割を終え廃城となった。
『参考資料:別冊歴史読本・真田幸村(新人物往来社刊)』

沼田領分割前後の真田氏領と北条氏領の境界(パンフレットより)
本能寺の変で織田信長の死後、」その後継者として地歩を固めた羽柴(豊臣)秀吉は四国の長曾我部氏、東海の徳川氏、九州の島津氏を降伏或いは服属させ天下統一を奨めました。
さらに、関東の北条氏を臣従させるため、懸案であった「沼田領問題」の裁定に乗り出し、天正17年(1589)7月に真田昌幸が領有する沼田領(利根郡と吾妻郡)を分割し、名胡桃城を含む3分の1を真田氏に、他の3分の2は北条氏に譲渡させた。
ところが、その直後の10月下旬、北条方が謀略によって名胡桃城を乗っ取るという事件が発生しました。
これに激怒した豊臣秀吉は全国の大名を動員して小田原征伐をし北条氏を攻め滅ぼしました。
下図は秀吉による沼田領分割前後の真田氏領と北条氏領の境界を推定したものです。名胡桃城が北条氏領に突き出すようにあり、北条氏にとって名胡桃城が邪魔なのがよく分かります。(現地売店のパンフレット参照)
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現況・登城記・感想等

名胡桃城は真田氏の沼田の地に対する愛着を越えた執念さえも感じさせる地であり、北条方の謀略により鈴木主水が割腹した名胡桃事件の舞台で、小田原の役の口実を与えた城として有名です。
利根川に突き出した河岸段丘の先端部の要害地を利用して築かれた連郭式山城で、各郭は堀切で分断され、周囲は急崖や土塁等で守られている。
現在は、北東部の主要部と南西部の外郭は国道17号線で真っ二つに断ち切られ、南西部の外郭跡は宅地や資材置き場などに埋もれてしまい、ほとんど跡形もありませんが、北東部の主要部は発掘調査がよく進み、国道側から北東に向かって連郭式に馬出し、三郭、二郭、本郭、笹郭、袖郭、物見郭が設けられ、各郭間を断ち切る堀切が確認できます。
当城の最大の見どころは堀切でしょう。特に、本丸と二の郭間、本郭と笹郭間の深い堀切には圧倒されます。また、さらに凄いのが、本丸やささ郭の両側の空堀や崖です。おそらく天然地形に手を加えたのでしょうが、郭から見下ろすその深さは迫力満点です。
(2001/08/17、2006/09/30登城して)

10年ぶりに登城しましたが、その変貌ぶりに驚きました。
以前登城した時にはほとんど埋まってしまっていた馬出しと三ノ郭間、三ノ郭と二ノ郭間の空堀が深く掘られ、二ノ郭周囲には土塁や柵が復元、そして各郭間の堀切には土橋が築かれていました。
さらには、六文銭の幟が至る所に立てられていました。
もっと驚いたのが、資料館が建ち、多くの観光客が訪れていたことです。しかも観光バスまで・・・w(*゚o゚*)w。
NHK大河ドラマ「真田丸」の威力たるや恐るべしデス。
(2016/10/28登城して)

4度目の登城です。今回は金婚式の記念にと息子達が猿ヶ京温泉旅行をセットしてくれたので、そのついでに登城しました。
というのは、歴史的にも有名且つ重要な城であり、息子夫婦にも見せたいのと、最近、御朱印が販売されているというので寄ってみることにしました。 ただ、今回は妻や息子夫婦の他に5歳と10歳の孫も一緒なので、城跡そのものは、ごく簡単に見て廻っただけです。
(2021年10月31日登城して)

ギャラリー

【名胡桃城縄張図】 (現地取得パンフより) ~画面をクリックにて拡大~
名胡桃城は、利根川に突き出した河岸段丘の先端部の要害地を利用して築かれた山城で、北東先端から物見郭、袖郭、笹郭、本郭、二郭、三郭の主要部が直線に並んだ連郭式山城で、各郭は堀切で分断され、周囲は急崖や土塁等で守られている。
名胡桃城縄張図

【外郭側から名胡桃城址を】
名胡桃城址は、主郭部と外郭間を国道17号線で断ち切られています。城址名のでっかい看板のすぐ向こうが丸馬出しです。
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【丸馬出し】
後の時期に造りつけられたと思われる変形の丸馬出しで、外郭との間を連結しています。三ノ郭(写真左側)への土橋両側には三ノ郭堀が設けられています。
馬出し

【三ノ郭周辺】
三ノ郭堀越しにとったもので、写真右の土橋を渡ったところが三ノ郭で、中央奥の木橋を渡ると二ノ郭へ出ます。
三ノ郭の規模は約64m×26mで東西に長い郭です。外郭との間の三ノ郭堀(写真手前)は幅約12m、深さ5~7mあります。

三ノ郭堀越しに三の丸を

三ノ郭堀(西側)
三ノ郭堀西側の堀底は般若郭との間の殿坂(写真奥)と合流し北へ延びます。 
三ノ郭堀西側

三ノ郭堀(東側)
三ノ郭堀東側

【二の郭南虎口周辺】  (現地説明板より)
二ノ郭南虎口は、二ノ郭が直接見透かされないよう郭内の建物敷地より一段高い位置に造られており、喰い違い虎口になっています。
二ノ郭堀切(写真手前)は幅11m~13m、深さ5.5m~7mで、堀切法面の傾斜は三ノ郭側が45度、二ノ郭側が55度と角度を変えて掘られています。また、直線的に設計せず堀幅半分ずらして掘られています。

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二ノ郭南虎口

二ノ郭堀切(西側)
二ノ郭堀切は二ノ郭と三ノ郭を断ち切っています。西側堀切は般若郭との間の殿坂(写真奥)へと落ちて行っています。写真左奥は般若郭です。
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二ノ郭堀切(東側)
二ノ郭堀切の東側先は急崖になっています。
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二ノ郭虎口両側の土塁(西側)
土塁の高さは、二ノ郭内から2mほどあり、虎口周辺の土塁基底部内側には2~5段の川原石の乱積みがあります。
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二ノ郭虎口両側の土塁(東側)
背後に見える山は、富士浅間砦址です。
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【二ノ郭】 (現地説明板より)
二ノ郭は約65m×50mの台形で、建物復元表示がされています。
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当写真は、二ノ郭南虎口の西側の土塁上から撮ったものです。写真奥には二ノ郭北虎口が見えます。
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【二ノ郭北虎口周辺】 (現地説明板より)
二ノ郭北虎口の特徴は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址で、うち一つは石塔の切石が再利用されています。
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二ノ郭北虎口を二ノ郭内から撮ったものです。
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二ノ郭北虎口の土塁上から二ノ郭北虎口本郭側を撮ったものです。右奥に見えるのは、本郭堀切と木橋です。
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二ノ郭北虎口を本郭側から撮ったものです。土塁基底部には2~5段の川原石の乱積みがあります。
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本郭堀切と木橋
本郭堀切は幅14~16m、深さ7~9mあり、法面は二ノ郭側より本郭側の方が20度ほど急傾斜で、土橋(木橋の下)の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に進入する構造になっています。
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【本郭】現地説明板より)
本郭は長さ約51m、幅約30mの洋梨型ですが、両側の崖面とも大きく崩落してコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったようです。郭の縁辺には土塁の基底部が残っており、土塁が巡っていたのが分かります。
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本郭堀切に架かる木橋から本郭を撮ったものです。中央奥に「名胡桃城址之碑」、右端に「副碑」が立っています。
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名胡桃城址之碑
本郭の中央に立つ「名胡桃城址之碑」は、昭和2年に建立されたもので、碑文を書いたのは徳富蘇峰です。石材は地元の富士山で採れた安山岩です。また、本郭隅の福碑は昭和43年の明治百年記念で建立されたものです。
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【笹郭・袖郭・物見台】  (現地説明板より)
笹郭とは城の主体となる本郭が外に対して剥き出しにならないように設けた郭です。当城は、笹郭の先端に袖郭が続き、さらに尾根伝いに下方に物見が設けられています。 
 笹曲輪と袖曲輪

笹郭と本郭間の堀切と笹郭
笹郭と本郭との間は幅約12m、深さ約6mの堀切で断ち切られ、幅1mほどの狭い土橋で連結されていました。現在は、階段が設けられて渡ることができるようになっています。堀切の向こう側に見えるのが笹郭です。
笹曲輪へ

笹郭
笹郭は長さ約31m、幅約14mで、中央には約1mほど掘り込んだ幅2~5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁で挟んでいます。往時は、土塁の内側には自然石を3~4段乱雑に積んだ石積みがありました。
笹曲輪

笹郭先端から袖郭と周囲の景色を
笹郭先端からの見晴らしは非常によく、周囲に築かれた真田氏側と北条氏側の多くの城を見渡すことができます。
往時は笹郭先端には礎石が4個設置された搦手門がありましたが、現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは保存のために埋め戻されていて見ることはできません。
袖曲輪

物見台
袖郭の先端の崖下(比高10mほど)に物見台があります。本郭や笹郭の方が高い所にあるのですが、東方の山の尾根が邪魔をして沼田城が見えないので、ここに物見櫓を建てて見張っていたようです。
物見台

【般若郭】  (現地説明板より) 
般若郭は主郭部と堀(殿坂)を挟んで西側の独立する小さな台地上にあります。長さ約85m、幅約50mあり、当城で一番大きな郭で、ここには築城以前に館が存在していたようです。
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現在、般若郭跡は駐車場になっています。以前、登城した時には全く車を見なかったのですが、今回はNHK大河ドラマ「真田丸」のせいか、朝早かったにも関わらず、多くの車が停まっていました。それどころか、しばらくすると観光バスまでやって来ましたw(*゚o゚*)w。恐るべし大河ドラマの威力!!
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【2021/10/31の登城】
(御朱印)
日本100名城の御朱印があるのは知っていましたが、他の城跡にも広まっているとは知りませんでした。しかも、このあと登城予定の決して有名とはいえない「中山城跡」の御朱印まで販売されているんだそうですヨw(*゚o゚*)w。
尤も、1600城以上もの城めぐりをし、今更、集める気はありませんが、今日の2城だけは金婚式旅行の記念にと思い、特別に購入することにしました。
御朱印は元々は神社仏閣の「参拝証明」のようなものですが、かなりの売上げがあることに目を付けた抜け目のない人が、お城ファンが増えた今、城の御朱印も販売し始めたのでしょうね(苦笑)。
御朱印は、20年以上前の京都在住時代に、妻が随分多くの神社仏閣を廻って御朱印を貰い始めてから、今では12冊もの御朱印帳にビッシリです(*^_^*)。最近は御朱印を購入するのは止めましたがネ。
さて名胡桃城の御朱印ですが、神社仏閣などと違い日付を書いてもらえないのが残念ですね。
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(本郭跡にて)
今回は妻、息子夫妻の他に5歳と10歳の孫も一緒だったので、さらっと一通りだけ見て廻っただけです。
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コメント

  あんこ(2015/11/21)

11月20日・名胡桃・沼田・岩櫃3城をめぐるバスツアーで訪れました。真田一族をめぐる城であり非常に興味深かったです。いつものようにこちらのサイトで勉強させていただいて出かけました。二郭から本郭、本郭からささ郭へ土橋であった所が工事中でささ郭への橋は確認できないので階段状にする模様です。この工事は来年大河の「真田丸」にむけてのものだそうです。各郭もかなり削られて(自然に)狭くなってしまっているようですが、堀切のすごさは伝わりました。ささ郭には入れませんでしたが、本郭から沼田城や北条領の城が間近に見え当時の緊張感が伝わってくるようでした。ガイドさんによると、どうせ復元するなら正確にして欲しいんだけど・・と言っていました。ドラマ化をきっかけに整備されるのはいいことかもしれませんね。

タクジロー(2015/11/24)

あんこ様
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
真田氏ツアー、いいですねえ。
名胡桃城へは、私も再登城したいと思っています。
復元するのなら、是非、正確にして欲しいものですね。
今後とも、宜しくお願い致します。

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