羽後 角館城(仙北市)

城址への登城口にたつ城址碑

角館佐竹氏の城下町は、武家屋敷と枝垂桜に小京都の面影を今なお残す

所在地

秋田県仙北市角館町古城山

形状

平山城(標高166m)

現状・遺構等

現状:古城山公園、山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、碑

満足度

★★☆☆☆(城址としての満足度で、町並みは含まない)

訪城日

2001/04/30

歴史等

尾輪平朝臣兼盛が、大和国吉野から陸奥国岩手郡滴石庄戸沢に移り住み、苗字を戸沢に改め戸沢氏の始祖となった。その子孫戸沢家盛の時、角館に城を築いて住んだと云われている。 天正18年(1590)家盛の7代の孫盛安は、豊臣秀吉の小田原征伐の時、真っ先に参陣し、本領安堵の朱印状をもらっている。
関ヶ原合戦では徳川方につき、軍功により慶長7年(1602)に常陸古河藩に転封(のちに、羽前新庄に転封)した後は、佐竹氏の領土となり、佐竹氏の客将的な存在であった芦名義勝(旧・盛重)が角館城主として入城した。
元和元年(1615)の一国一城令により、元和6年(1620)には角館城も破却対象となった。これを機に芦名義勝は戸沢氏時代の角館城の北側にあった城下町を捨て、新たに南側に城下町建設を開始した。そのため、川と山に囲まれた、守りに易く攻めるに難い場所に立地し、古城山の南麓には居館を設け、寺院が町を囲むように配置し、武家屋敷がそれぞれが抵抗拠点となるように設計されるなど、いざという時の防衛を考えた町造りがなされた。芦名氏は承応2年(1653)に三代当主千鶴丸が死亡し断絶、その後は明暦2年(1656)、佐竹義隣(よしちか)が入り角館の主は佐竹北家となり、以後明治維新まで角館を治めることとなった。
ちなみに佐竹義隣は、大納言高倉永慶の次男で、母が藩祖の佐竹義宣の妹であった関係から、佐竹北家の養子に迎えられた。また、義隣の子・義明は公卿の三条西家の娘を妻とした。このように佐竹北家の角館と京の都との関係は深く、そのため奥羽の片田舎に京風文化が花開いたのである。

【佐竹北家】佐竹四家のひとつで、湯沢の南家・大館の西家・本家が東家

『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)参照』

現況・登城記・感想等

角館の武家屋敷の桜を見物するにはやや遅く、残念ながらすでに葉桜になっていたが、大きくて立派な枝垂桜の並木と武家屋敷が見事に調和して満開時の情景が見事であろうことは容易に想像できる。満開時にまた訪ねたいものである。この枝垂桜は1664年京都の公家が角館佐竹氏に嫁いてきた時に、嫁入り道具の中に枝垂桜の苗が3本入っていたことがその始まりとのことである。
角館城そのものは郭や土塁跡等はあるものの、あまり見るべきものはない。ただ、頂上(本丸跡)からの景色は角館の町が一望でき、なかなかのものである。
(2001/04/30に登城後)

ギャラリー

本丸跡

武家屋敷
桜見物には、残念ながら少し遅かった。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント