西南学院大学第一号館内に移築復元保存された元寇防塁
西新地区の3ヶ所で発見された元寇防塁、一部は石塁と土塁の2列構造に
別名
石築地
所在地
【西新地区】 福岡県福岡市早良区西新7丁目4−3
【西南学院大学内】 福岡県福岡市早良区西新6丁目2番、西南学院大学1号館内
【百道地区】 福岡県福岡市早良区百道1丁目10番
形状
防塁
現状・遺構等
【現状】 住宅街、西南学院大学など
【遺構等】 石塁、土塁、石碑、説明板など
満足度
★★★☆☆
訪城日
2019/11/25
歴史等
13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、文永11年(1274)博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。
幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、建治2年(1276)3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁です。
文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となりました。その後この防塁が築かれました。
防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。防塁の高さは2.5~3mほどと考えられますが、この西新地区(当時の百道原)の分担国は分かっていません。
弘安4年(1281)元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役)。
元寇防塁は、昭和6年(1931)、国の史跡に指定され、保存されています。
『現地説明板他より』
現況・登城記・感想等
西新地区の元寇防塁跡は、「西新7丁目」と「西南学院大学1号館内」と「百道1丁目」の3ヶ所で発見されています。
いずれも見学することができますが、「西新7丁目」と「西南学院大学1号館内」の防塁は修復・復元(西南学院大学1号館内は移築復元)され見応えがありますが、「百道1丁目」の防塁跡は発掘調査もされていないのか、柵内に石積みの頂部の石?が露出している?(転がっている?)のが見えるだけです。
「西新7丁目の防塁」は、大正9年(1920)に発掘され、昭和44年(1969)に本格的な発掘調査が行われました。防塁の構造は、粘土による基礎工事を行い、基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめて、石材の節約をはかった独特の工法となっていることが分かりました。
平成11年(1999)に西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁は、「西新7丁目の防塁」と同様に高さ2.4mの本体の両面を石積みで堅固に整え、中に粘土と砂を交互に詰めていました。一方、石塁の背面にも約1mの間隔をおいて幅1.5m、高さ1.3mほどの粘土と砂を交互に積み重ねた土塁が検出され、この付近では石塁と土塁の2列構造であったことが分かりました。
尚、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されています。しかも、パンフレットまで置かれて有難いです。
(2019/11/25訪れて)
ギャラリー
元寇防塁位置図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
元寇防塁の遺構は、現在、西から今津、今宿、生の松原、姪浜、西新、地行、箱崎の7ヶ所に確認されているようです。
西新地区元寇防塁跡の位置図
西新地区の元寇防塁跡は、「西新7丁目」と「西南学院大学1号館内」と「百道1丁目」の3ヶ所にあります。
【西新7丁目の防塁】
西新7丁目の防塁跡への案内板
明治通り脇に立つ元寇防塁と刻まれた石碑(写真を撮り忘れました)の脇道(修猷館高校のグラウンドの南西角)から西南学院大学を目指して250Mほど北進すると、飛騨炉前方に「←史跡元寇防塁」の案内板が現れたので、その手前の道を左へ向かうと「西新7丁目の防塁跡」へ出ます。
修復・復元され保存されている防塁
西新7丁目の防塁は、大正9年(1920)に発掘され、昭和44年(1969)に本格的な発掘調査が行われました。防塁の構造は、粘土による基礎工事を行い、基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめて、石材の節約をはかった独特の工法となっていることが分かりました。
【西南学院大学第一号館内の防塁】
西南学院大学第一号館内に移築・修復・復元された防塁(窓から見下ろす)
西南学院大学の一号館へ入る階段を登って行くと、右前方の一段下に壁に囲まれた場所に防塁があります。この防塁は、平成11年(1999)、この1号館の建設に当たって12mほど南西で検出された防塁を移築復元され、公開されているものです。防塁は、西新7丁目の防塁と同様に高さ2.4mの本体の両面を石積みで堅固に整え、中に粘土と砂を交互に詰めていました。
一方、石塁の背面にも約1mの間隔をおいて幅1.5m、高さ1.3mほどの粘土と砂を交互に積み重ねた土塁が検出され、この付近では石塁と土塁の2列構造であったことが分かりました。
防塁を間近から見るために一号館の階段を降りて行ったら、展示場所へ入って行くことができました。
【百道1丁目の防塁】
百道1丁目防塁跡の東の方の空き地に立つ石碑
西新7丁目の防塁跡から2~300mほど西進すると、住宅街の一角にある空き地に石碑が立っています。
百道1丁目の防塁跡
上写真の石碑前の道をさらに50m?ほど西進すると、防塁跡が・・・。ここは、発掘調査もされていないのか、柵内に石積みの頂部の石?が露出している?(転がっている?)のが見えるだけです。そして、その脇に説明板が設置されています。