信濃 小出城(伊那市)

中城(主郭)の西側(中城・西城間)の堀切(切通し)

鎌倉時代前期に有力御家人・工藤氏一族の小井弖氏(後の小出氏)が築いた城

読み方

こいでじょう

別名

花田城、城田城

所在地

長野県伊那市西春近352
【アクセス】
JR飯田線「下島駅」から北西へ約1kmで、「西春近北小学校」から西へ約400m。西春近北小学校の北東から200m程北上して左折し、300m程西進した3本目路地を左折し、300m程南下した左手(東)周辺が城跡ですが、ナビで西春近北小学校を指定し、その西の方を目的地として行ったら「小出城址」への案内柱が出てきたので、それに従って行きました。尚、城址へ南進する最後の道は最終的に中城(主郭)と西城間の堀切(切通し)となりますが、車のすれ違いができないほど狭いです。また、駐車できるような広い所はないので城跡への入口(主郭のすぐ下)に駐車しました。
西春近北小学校:伊那市西春近小出一区191、電話0265-72-3221

所要時間

今回の見学時間は約25分。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】畑地、雑木林
【遺構等】曲輪、土塁、堀切、城址柱、説明板2基

満足度

★★★☆☆

訪城日

2022/10/23

歴史等

小出城の築城は鎌倉時代前期頃で、城主は工藤氏一族の小井弖(こいで)氏と思われる。
工藤氏(後に小井弖氏→小出氏)の源流は伊豆伊東地方の豪族工藤氏で、先祖は藤原鎌足-不比等-武智麻呂の藤原南家と云われる。
工藤氏は源氏派の有力御家人で、早くに信濃国に住み着き、源頼朝挙兵(1180)の折り甲斐源氏武田信義親子と共に平家方大田切城を攻め、勝利の勲功により西春近領地を安堵されたと伝わり、師能の時、その地名から小井弖と名乗った。
建武2年(1335)の中先代の乱(なかせんだいのらん)や南北朝時代の大徳王寺城戦、その後の大塔合戦、結城合戦に参加した記録がみられる。
そして、室町時代の享徳2年(1453)頃に師能系の弾正中朝能兄弟は、妹が神氏(みわし・後の諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪氏の依頼を受け諏訪に移住したと云われている。
尚、但馬出石藩主小出秀正やその子・岸和田藩主小出吉英、園部藩主小出吉親兄弟も、ここの小出氏の末流と考えられている。
(現地2基の説明板より)

現況・登城記・感想等

小出城は南は戸沢川の第一河岸段丘面、東は戸沢川支流の第一河岸段丘面に位置し、両面とも開折地形が発達していて急傾斜の段丘崖を形成しており、台地の南端に中城(主郭)を置き、それを取り囲むように、東城・西城と屋敷群(段曲輪)が配されています。
中城(主郭)は35~40m×40~45mほどとかなり広い長方形で現在は畑地として使用されています。周囲のあちこちには高さ50cm弱の土塁痕らしきものが確認されますが果たして??
中城(主郭)周囲(北・東・西)はコの字状に、それぞれ見応えのある堀切が取り囲んでいます。
中でも、東側は二重堀切となっており土塁共々見応えがありますが、木々が多くて葉っぱが邪魔をして二重堀切を同時に写真を撮れなかったのが残念でした。
また、西側(中城と西城の間)は深~い切通し(堀底道)になっており、今も細いながらも車道として使われています。
南側には堀はないものの、高さ20m近くあろうかと思われる急崖で防御されています。
尚、城域は南北約200m、東西約200mで面積は4万㎡ほどになるそうです。
(2022/10/23登城して)

ギャラリー

小出城跡周辺図(中城虎口脇の説明板より)
小出城縄張図

小出城鳥瞰図(余湖くんのホームページより)
小出城は段丘台地の南端に中城(主郭)を置き、それを取り囲むように、東城・西城と屋敷群(段曲輪)が配されています。中城(主郭)周囲(北・東・西)はコの字状に、それぞれ見応えのある堀切が取り囲んでいます。
東側は二重堀切となっており、西側(中城と西城の間)は深~い切通し(堀底道)になっています。
一方、南側には堀はないものの、高さ20m近くあろうかと思われるような急崖で防御されています。
尚、現地の説明板にも鳥瞰図が載ってましたが、見て廻った全体像と合わず、余湖くんのホームページの鳥瞰図の方がイメージぴったりだったので今回も使用させて戴きました。
小出城鳥瞰図

中城(主郭)と西城間の堀切(切通し)
小出城址への案内柱の従って行き、最後の狭い道を南進すると写真左の中城(主郭)と西城(写真右)を断ち切る堀切(切通し)へ出ます。堀底と中城との高低差は5mから一番奥の深いところでは10m近くあると思います。また、写真右側の西城跡とは3~4mほどあり、一番奥では6~7mほどあるのではないでしょうか。尚、この堀底道は堀切の南端で左(東)へと中城南側の急崖下に沿った道となります。また、車は写真左下の中城への登城口に停めました。IMG_1812

中城(主郭)への登城道
上写真の左下の道を入って行きます。右上が中城(主郭)です。
IMG_1813

右上が中城で左側は段曲輪になっている屋敷群です。右側は中城(主郭)への登城道で左下の道は、堀底道で先の方へ進むと深い堀切になります。
IMG_1816

中城(主郭)虎口脇の説明板と城址碑)
上写真側の登城坂道を登って行くと、登り切った虎口脇に城址碑と説明板2基が設置されています。右側の説明板には鳥瞰図と城址周辺図も載ってます。
IMG_1820

中城(主郭)
中城(主郭)は東西35~40m×南北40~45mほどとかなり広い長方形で現在は畑地として使用されています。
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土塁痕?
土塁周囲のあちこちには高さ50cm弱の土塁痕らしきものが確認されますが果たして??
IMG_1845

主郭北側の堀切を中城(主郭)上から見下ろす
説明板のところから曲輪端を東へ向かって進むと、北側真下に深い堀切が見えました。堀底までの高低差は5mほどありそうで、かなりの急斜面ですが下りて行くことにしました。尚、堀切の向こう側に見えるのは北側の屋敷群の段曲輪です。
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中城(主郭)北側(中城と北側の塁段になった屋敷群との間)の堀切
中城(主郭)北側の堀底に下りて撮りました。写真右側の中城(主郭)との高低差は5mほどです。主郭の東側(写真右側奥)にも堀切が設けられています。尚、この堀底道をずーっと東の方へ下りて行くと二股道になり、北側(写真左奥)の道は左へと段曲輪の東端下に沿った道になり、南側(写真右奥)への道は中城(主郭)の東側の東城の東端下にそった道になるようですが、今回は孫などが待っていたので行ってみるのは諦めました。
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【中城(主郭)と東城を断ち切る二重堀切】
上写真の堀底道を行き、右側の中城(主郭)東端下まで進み右上を見ると堀切が見えたので登って行きましたが、それは中城(主郭)と東城を断ち切る二重堀切の内側の堀切でした。 ただ、残念ながら二重堀切の間の土塁等々にかなりの木々があり葉っぱが邪魔をして、残念ながら二重堀切を同時に写真に収めることができませんでした。
中城と東城を断ち切る二重堀切の内側(中城側)の堀切
上写真の中城東端部下堀底から2mほど登ると中城東側の堀切へ出ます。写真右上の中城との高低差は3mほどです。
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中城と東城を断ち切る二重堀切の外側(東城側)の堀切
二重堀切の間の土塁には多くの木々があり、東城側が見えるところがあまりありませんでしたが、唯一、土塁上を少し南側へ行ったら何とか外側の堀切が見えました。但し、東城上は大変な藪で、とても入って行けそうになくて断念しました(;>_<;)。
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中城(主郭)南側の急崖
中城(主郭)の南側は強烈な崖になっており、実際は高低差15m以内でそうが、上から見下ろすとまるで高低差20mもあるように見えます。
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中城北端から中城北側の段曲輪(屋敷群跡)を
中城の北側の屋敷群跡(段曲輪)は3段になっており、東端(写真右側)の一番下は畑地になり、上の2段(社員の左側にあるのですが撮れませんでした)は竹藪になってます。
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中城(主郭)西側の西城とを断ち切る堀切(切通し) ~南側から撮影~
一通り見終わったあと、中城と西城を断ち切る堀切(切通し)を堀切南端へ向かい振り返って撮影です。この南端部からは、右側の中城との高低差は10m近く、左側西城とは6~7m近くあるのではと思われます。
尚、中城南側の急崖も見上げたのに写真を撮り忘れてしまいました(;´▽`A``。また、ほとんど畑地になってしまっているとはいえ、西城跡も撮り忘れました(;>_<;)。

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