出石城全景(背後の山は有子山城址)
山名氏の有子山城の山麓に小出吉英が築城。後に仙石氏お家騒動が
別名
石城
所在地
兵庫県豊岡市出石町内町
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 国指定史跡
【遺構等】 本丸跡に西・東の模擬櫓2基、本丸・二の丸・三の丸の石垣、土塁、内堀の一部
満足度
★★★☆☆
訪城日
1996/09/07
2006/09/02
2015/11/11
歴史等
山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義は、応安5年(1372)頃、標高140mの此隅山(このすみやま)に城を築いた。元々は「子盗山(こぬすみやま)」であったのが訛って「此隅山(このすみやま)」になったと言われる。此隅山城は長らく山名氏の本拠であったが、永禄12年(1569)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。
山名祐豊(応仁の乱の中心人物・山名宗全の曾孫)は、残存兵力をかき集め、再攻撃に備えるために城に堅固さを求め、天正2年(1574)、此隅山より高い標高321mの有子山山頂に有子山城を築き、本拠を移した。
しかし天正8年(1880)、秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、祐豊は自刃し、その子氏政は因幡に逃亡し、但馬国・山名氏は滅亡した。
有子山城は、その後しばらくは織田系の城主の管理となり、城代の時代が続いたが、天正13年(1585)播磨三木から前野長康が入封した。しかし、文禄4年(1595)秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて、息子の景定と共に自害を命じられた。
代って、播磨龍野から小出吉政が入城した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、吉政の父秀政は東軍に付き次男を参陣させ、吉政を西軍にという策を採った。これが成功し、吉政は罪を問われずに済んだ。
慶長9年(1604)吉政に代って領した子吉英は不便な山城・有子山城を廃して、有子山の北麓を利用して新たに平山城を築き、城下町を整備し、出石の町並みが形成された。
城主は、小出氏が9代(100年)、藤井松平氏が1代(10年)、仙石氏7代(160年余)と続き、明治の版籍奉還まで270年間、5万8千石の本城として、また但馬唯一の雄藩として威容を誇った。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」等」参照』
現況・登城記・感想等
出石城は、小出吉英が、関ヶ原合戦後に不便な山城・有子山城を廃して、その北麓を利用して新たに築いた梯郭式平山城で、有子山の麓に、上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の曲輪と段々に石垣で囲んで築き、これを広大な三の丸で囲んでいます。
稲荷郭には城の鎮守・稲荷神社を祠り、本丸・二の丸には御殿を建て廊下で連結させていました。隅櫓や多聞を設けましたが天守閣は築かれませんでした。
現在、堀と石垣など現存し、本丸東西の隅櫓・登城門・登城橋などが再建されています。
尚、出石は往時の風情をよく残した落ち着いた町であるとともに、千石氏が信州上田から国替えになった際に伝来したという「出石蕎麦」も有名で、人気の観光地になっています。
(1996/09/07、2006/09/02、2015/11/12登城して)
ギャラリー
出石城縄張略図(現地説明板より)
出石城は、上(南)から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の曲輪と段々に石垣で囲んで築き、これを広大な三の丸で囲んでいます。
出石蕎麦
出石と云えば、何はともあれ「出石蕎麦」です。店主が言うには「小さな皿に5枚で1人前となっているが、昼食としては10枚くらいが普通」とか。なかなか風味豊かな蕎麦で、うどん文化の関西では唯一美味しい蕎麦の食べられる所といえるかもしれません。2015/11/12に一緒に行った増っさんも満足顔です。
出石の町並みと辰鼓楼
出石は昔の風情をよく残した落ち着いた町です。2度目の登城(2006/09/02)は友井さんとの登城でした。
辰鼓楼
廃城となった出石城三の丸大手門石垣を利用して明治4年(1871)に建設されました。かつて、城下町の人々は寺の鐘で時刻を知ったが、明治になりこれに代わるものとして竣工されました。ここには当時「大手門」があり、道が直角に折れ曲がるように虎口を形成していましたが、廃城後に道を塞ぐ位置にあった石垣は破壊され一本道になりました。
登城橋と登城門
平成6年11月に完成した登城橋と登城門です。背後の櫓は西隅櫓で、その後ろの山が有子山城址。
西の郭跡から西櫓を
東隅櫓
昭和43年、本丸跡に東西の隅櫓が復興され、その後平成6年に登城門や登城橋が建設された。
本丸跡
右奥に西隅櫓、中央奥が感応殿です。前回( 2006/09/02)の登城時には、「本丸跡」の石碑の後ろに「出石城」の石碑が立っていましたが、今回(2015/11/12)には無くなっていました。。
感応殿
出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久を祀っています。秀久は美濃の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人したが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捉えた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、秀久のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永3年(1706)に出石に移封されて5万8千石を領し、以来、廃藩まで7代163年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公をまつる感応殿が建立され今日に至っています。以後、町の人々は本丸を権兵衛さん、又は円覚さん(法名円覚院殿)と愛称をもって呼び、例祭は5月6日に行われています。(現地説明板より)
稲荷曲輪の石垣
この高石垣が出石城で最も見応えのある石垣かもしれません。
稲荷曲輪
天守曲輪に相当する最高所にあります。
稲荷曲輪から本丸の西隅櫓と出石の町並みを
家老屋敷
出石城内にあった江戸後期の上級武士(家老級)の居宅で、仙石騒動の中心人物・仙石左京の屋敷があった場所です。
家老屋敷長屋門
桂小五郎潜居跡
元治元年(1864)蛤御門の変(禁門の変)で破れた長州藩士・桂小五郎は名を偽り素性を隠して各地を逃亡、7月に出石へたどり着いて身を潜めました。出石滞在中は商人になりすましていたといいます。