本陣中腹に立てられた本陣跡表示板と稲荷社祭の幟
長篠・設楽ヶ原合戦時に信長が本陣とした陣城
別名
茶臼山陣所
所在地
愛知県新城市牛倉城山(茶臼山)
【アクセス】
新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)」の東側の小山が史跡で、遊歩道が整備され、3分程登ると本陣です。下道からだと、PAの南側下の道路からも遊歩道が整備されているようです。
所要時間
新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)」から頂上部まで約3分
下道からだと10分ほどのようです。
形状
陣城
現状・遺構等
【現状】茶臼山公園
【遺構等】曲輪、歌碑、陣城頂部への案内標柱、表示板、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2022/08/11
歴史等
天正3年(1575)長篠・設楽ヶ原合戦に臨んだ織田信長は設楽ヶ原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議をひらき、武田軍の騎馬隊の攻略の作戦を練った。
そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
このすぐ北側には、側近。羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
布陣は当時の織田信長の権力の絶大さを示しているといえよう。
(山頂部曲輪跡の説明板より)
【長篠・設楽ヶ原合戦】
天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し武田軍1万5千人は雨もよいの中、進軍を試みますが三段に設けられた馬防柵・土塁・火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでした。
(新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)の東側の合戦時布陣図付き解説板より」
現況・登城記・感想等
新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)」の東側の小山が史跡で、中腹に「織田信長戦地本陣跡」の大きな表示板と「茶臼山稲荷祭」と書かれた多くの赤い幟が立てられている。
山頂部へは階段道が整備され3分ほどで到着する。
山頂部は狭いながらも削平され西側の一段高い部分に稲荷社の祠が建てられている。
また、その左(南)側手前には珍しい信長の歌碑「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」がある。
合戦地側である東側は急斜面であるが塁段になった幾つもの狭い曲輪跡のような平坦地があるが、鬱蒼とした林になっていて合戦地方面は全く見えない。
【ちょっと一言】
この新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)」へは、実家への帰省の際をはじめ、何度か立ち寄ったことがあり、長篠・設楽ヶ原合戦の布陣図が掲載された解説板には気が付いていましたが、すぐ東側の小山が信長本陣跡とは知らず、小山中腹に立てられた大きな標柱にも今まで全く気が付かず。今回たまたま大きな標柱に気が付きました。我ながら、何とも迂闊で情けないです( ̄ー ̄;。こんな大きな標柱、前からあったのかなあ??
とはいえ、今回、たまたま気が付いてラッキーでした(*^_^*)。
ギャラリー
長篠設楽ヶ原合戦鳥瞰図(布陣図) ~画面をクリックにて拡大画面に~
新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)」の東側(本陣跡の小山の西側山麓)にこの合戦鳥瞰図(布陣図)が設置されている。
信長本陣跡全景
新東名高速道路「長篠設楽原PA(下り)」の東側に小山がある。それが史跡で、中腹に「織田信長戦地本陣跡」の大きな表示板と「茶臼山稲荷祭」と書かれた多くの赤い幟が立てられている。
本陣跡への遊歩道登り口
本陣跡へは綺麗に階段が整備され、その登り口には「←織田信長本陣跡」の案内の標柱が設置されている。
山頂部の曲輪跡
山頂部は狭いながらも削平され西側の一段高い部分に稲荷社の祠が建てられている。また、その左(南)側手前には珍しい信長の歌碑「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」がある。
東側斜面
合戦地側である東側は急斜面であるが塁段になった幾つもの狭い曲輪跡のような平坦地があるが、鬱蒼とした林になっていて合戦地方面は全く見えない。