筑前 元寇防塁 今宿地区(福岡市)

元寇防塁(今宿地区)跡地区の石塁が埋められた跡に立つ石碑

元の攻撃に備え博多湾岸沿いに築いた石塁で豊前国が分担した部分

別名

石築地

所在地

福岡市西区今宿駅前1-22、長垂海浜公園
【アクセス】
福岡中心街方面から唐津街道えお西進し今宿地区に入り長垂信号があり、右手に長垂海浜公園が現れます。公園内に元寇防塁史跡があります。駐車場に困るのですが、公園最西端から200m?ほどさらに西進すると左側に有料駐車場がありました。

形状

防塁

現状・遺構等

【現状】 長垂海浜公園
【遺構等】 土塁の高まり、石垣の一部、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2019/11/25

歴史等

13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、文永11年(1274)博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。
幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、建治2年(1276)3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。
防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用されています。防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。 この今宿地区は豊前国が分担して、今山の麓から長垂山の麓まで約2.2kmにわたり築きました。現在、この場所と今山の麓が指定地となっていますが、防塁そのものの調査は行われておらず、その構造は分かっていません。
弘安4年(1281)元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役)。
元寇防塁は、昭和6年(1931)、国の史跡に指定され、保存されています。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

元寇防塁跡が確認されている7ヶ所のうち、今津、生の松原、西新の3地区は発掘調査も進み、復元もされていますが、残りの地区は土塁様の高みの上に僅かに石垣の石が確認されるだけであったり、説明板や石碑がなければ、気付かないような状況で、発掘後埋め戻されたり、発掘調査が進んでいないようです。
今宿地区(長垂海浜公園)は特に調査されていないようで、松林に所々石積の石らしきものが露出してているだけです。
(2019/11/25訪れて)

ギャラリー

元寇防塁位置図(現地説明板より)
元寇防塁の遺構は、現在、西から今津、今宿、生の松原、姪浜、西新、地行、箱崎の7ヶ所に確認されているようです。
史跡元寇防塁位置図

元寇防塁(石塁)が埋まっていると思われる高まり
IMG_1374

土塁(高まり)の所々に露出している石積みの石
IMG_1375

説明板
IMG_1379

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