肥前 鹿島城(鹿島市)

鹿島城の象徴「赤門(本丸の正門)」、現在は鹿島高校の校門

鍋島氏の三支藩(小城・蓮池・鹿島)の一つ鹿島鍋島家の城(陣屋)

別名

鹿島新城、鹿島館、鹿島陣屋、高津原屋敷、高津原館

所在地

佐賀県鹿島市高津原城内
鹿島高校と旭岡公園一帯が鹿島城跡で、鹿島高校が本丸跡です。旭ヶ岡公園に無料駐車場があります。
鹿島高校:鹿島市大字高津原462番地、電話0954-62-4136

所要時間

今回の見学時間は50分弱でした。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 鹿島高校、旭岡公園
【遺構等】大手門、正門(赤門)、櫓台、石垣、水堀、土塁、武家屋敷跡、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2019/11/24

歴史等

鹿島地域はもともと大村氏の支配下にあったが、戦国期になると、小城の千葉一族や高来の有馬氏らの攻撃を受けるようになり、鹿島は有馬氏の支配下に入りました。
しかし、天正4年(1576)、勢力拡大を続けていた竜造寺隆信が、家臣の鍋島直茂らを率いて日野江城主有馬氏を破って鹿島を支配下に置き、鍋島信房に命じて常広城を築かせて支配させました。
その後、竜造寺隆信が天正12年(1584年)の沖田畷で戦死すると、肥前の支配は鍋島氏に移っていき、さらに関ヶ原合戦で東軍に加担し、鍋島直茂は肥前35万石の太守となりました。
そして、直茂の次男忠茂が、2万5千石を領して常広城主に封じられ、佐賀鍋島氏の三支藩(小城蓮池鹿島)の一つ鹿島鍋島家となりました。
しかし、北鹿島にあった常広城は低地にあり、度重なる水害に悩まされていたことから、鹿島9代藩主直彝(なおのり)は、文化4年(1807)年に、現在の高津原の台地に新たに鹿島城を築きました。
それから60年後、明治維新が起こり、さらに明治7年(1874)江藤新平らによる佐賀の乱が発生するに及んで、鹿島城は大手門、正門などを除く城の大部分が焼失しました。

現況・登城記・感想等

鹿島城跡は、本丸跡が鹿島高校の敷地となっていて、鹿島市の住宅地に残る高麗門形式の大手門から、南の方にある鹿島高校(本丸)に向けて階段式に地形が高くなり、高校に至る道も鍵形に折れ曲がり、石垣等もよく残り、そこに建つ建物も含めて城下町の風情がよく残っています。
鹿島高校の北側入口には、鹿島城本丸の正門である薬医門形式の片番所附き赤門が残り、また、正門前の北側から東側にかけて水堀があり、本丸と東曲輪(旭ヶ岡公園)の東面には石垣が累々と残っています。
また、城の南側にも石垣が連なり、道路を挟んで武家屋敷の家並みが今も残っています。
城の規模も想像以上に大きい上、本丸跡周辺だけでなく、城下町も含めてここまで良好に残っているとは期待していなかったので、感激ものでしたよ(*^_^*)。
尚、鹿島城主は城持大名でなかったため、陣屋なのですが、地元ではもっぱら鹿島城と呼んでいます。
尤も、城跡を見る限り、どう見ても陣屋というより城ですがネ。
(2019/04/24登城して)

ギャラリー

旭ヶ岡公園絵図 ~画面をクリックにて拡大画面に~
01鹿島城絵図

大手門
鹿島城は、明治7年の佐賀の乱の際に焼失したが、赤門(本丸正門)とこの大手門は類焼を免れて残存しました。
大手門は、屋根妻造本瓦葺きの高麗門様式の城門であるとともに正面に藩主の杏葉の紋をつけ飾金具は少なく極めて簡素なものですが、木組は雄大で幕末小藩の城門としては堂々たるものです。(現地説明板より)
11大手門

大手門前の堀
12大手門脇水堀

城下町
大手門前を右(西)へと向かうと如何にも城下町のような風景が・・・。鈎型に曲がった登城路や石垣が残っています。この辺りは武家屋敷跡でしょう。
13城下町

鹿島高校大手門学舎の一角です。
この辺りは北曲輪跡でしょう。
14鹿島高校大手門学舎

赤門(本丸正門)
鹿島城の象徴ともいえる赤門は本丸の正門、現在鹿島高校の校門となっています。
21赤門

赤門(本丸内から)
赤門は切妻造り桟瓦葺きの薬医門形式で、門の西側には番所が付いています。鹿島城の落成1年後の文化5年(1808)に建立されました。(現地説明板より)
22赤門本丸内から

本丸跡
赤門から入ると、本丸跡(鹿島高校)へ出ます。目の前には、13代藩主(最後の藩主)鍋島直彬(なおよし)の銅像が立っています。

23本丸跡

鍋島直彬像
24鍋島直彬像

本丸北側の水堀(赤門前の橋から撮影)
赤門前の北側から東側にかけてなかなか見事な水堀が残っています。
25本丸北側水堀

本丸の北東付近の水堀と朱塗り橋
本丸東側水堀の最北部の辺りは、何か複雑な感じになっていますが、水位を調整しているのでしょうか。また、堀にかから朱塗り橋がなかなかかっこいいです。
26本丸北東隅水堀と朱塗り橋

本丸東側の水堀と石垣(北の方から撮影)
本丸東側の水堀は幅10m近くあり、長さは200m以上あるでしょう。堀の左側は旭ヶ岡公園で、東曲輪跡でしょう。
尚、水堀内に造られた木組みの池?のようなものは何でしょうか?誰かお教え下さい。

27本丸東側石垣と水堀

本丸東側の水堀と石垣(南の方から撮影)
28本丸東側石垣と水堀

武家屋敷通り
鹿島城跡の南側には武家屋敷通りが通っています。通りの両側の石垣と武家屋敷の白壁が印象的で落ち着いた雰囲気がなかなかいいです。
31武家屋敷通り2

31武家屋敷通り1

幕末期の家老・原家の武家屋敷と棟門
武家屋敷跡に、唯一、遺構が残っているのが、幕末期の家老・原家の武家屋敷棟門のみです。その原家の家屋も茅葺きですが、遠目では家屋が崩れているようでした。
32武家屋敷棟門1

棟門
32武家屋敷棟門2

東曲輪の南面と東面を固める高石垣
東曲輪(旭ヶ岡公園)の南面と東面には見事な高石垣が残っています。特に、東面石垣の長さは200mはあるでしょう。
41東郭石垣

東曲輪北東隅の櫓台と東曲輪への虎口
東曲輪東面の長~く延びる石垣に沿って歩いて来ると、櫓台石垣が現れます。その脇には東曲輪への虎口があります。
42東郭隅櫓台

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