上野 中山城(高山村)

本丸南側の大規模な空堀

本能寺の変後に滝川一益撤退後、後北条氏が築いた半折囲郭式丘城

所在地

群馬県吾妻郡高山村中山
国道145号線を挟んで、「道の駅・中山盆地」の北西約300mが城跡です。国道145号線の「中山信号」を西へ300mほど西進すると道沿い右手(北側)に城址碑と説明板があり、そこが駐車場になっています。
道の駅・中山盆地:群馬県吾妻郡高山村中山2357−1、電話0279-63-2000

所要時間

今回の見学時間は駐車場と登城口間の時間も含めて1時間20分ほどでした。

形状

平山城(標高560m、比高約15~20mほど)

現状・遺構等

【現状】山林(高山村指定史跡)
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2021/10/31

歴史等

群馬県史 通史編3 中世は「16世紀に入ると、上野内の築城は第三期を迎え・・・中世築城の最盛期となる・」とし「主な城を挙げると金山城箕輪城長井坂城中山城・・などである」と記している。そして、その築城者は、前記した城は総て後北条氏によるとし、特に、中山城長井坂城の築城手法は、同じ半折囲郭構造で驚くほど似ている、と指摘している。
その構造は、本丸を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸を設置し、堀切と土居で防禦をつくり、二の丸の西にこれを囲むような形に三の丸がつくられて、要害堅固な城郭をなしているのがうかがえる。また、その築城年代については、県教委発行の「群馬県の中世城館跡」によると、北条氏が上野国の主要部を制した後期、天正11年(1583)から14年(1586)と推定されると記している。
『現地説明板より』
以上のことから、天正10年の本能寺の変で織田信長の死後、後北条氏が滝川一益を破り撤退させた後に、後北条流築城術を駆使して造られた城であろうことが推定される。

現況・登城記・感想等

中山城は舌状台地に築かれた半折囲郭式丘城で、本丸の西・南・北の外側に3部分に分かれた二の丸が囲み、二の丸の西と南の外側には三の丸が付き腰曲輪等が付属しています。
さらに二の丸と三の丸の北側には帯曲輪、北曲輪が設けられ、一方、三の丸の南側(舌状台地先端部)には広い捨曲輪が設けられ、各曲輪間は堀で区画されています。
本丸は約60m平方の正方形に近く、急崖になっている東側を除く三方を高さ2mの土塁が取り囲み、その外側には深い空堀が設けられています。虎口は南北2ヶ所にあり、南側が大手、北側が搦手とのことです。
城跡へは東側山麓から登ることができる。
直接、本丸へ登ると、本丸の北、西、南側の三方を取り囲む土塁と空堀を見て廻ることができる。
一方、三の丸と捨曲輪間の堀底道か北曲輪の北側の道から登城すると、本丸の東側を除く三方を取り囲むように設けられた各曲輪や曲輪を区画する空堀(堀底道)などを見て廻ることができるが、捨曲輪跡の一部と三の丸跡は畑地となり、その他の曲輪跡はほとんど整備されていない雑木林です。
当城跡の見どころは、各曲輪を区画する空堀(堀底道)でしょう。中でも、本丸の東側を除く三方の深さ10mはゆうにある空堀は迫力満点です。
登城前には、ここまで素晴らしい遺構が良好に残るとは想像だにしていなかったので随分得した気分です。
(2021/10/31登城して)

ギャラリー

【中山城縄張図(現地説明板より)】
中山城は舌状台地に築かれた半折囲郭式丘城で、本丸の西・南・北の外側に3部分に分かれた二の丸が囲み、二の丸の西と南の外側には三の丸が付き腰曲輪等が付属しています。
さらに二の丸と三の丸の北側には帯曲輪、北曲輪が設けられ、一方、三の丸の南側(舌状台地先端部)には広い捨曲輪が設けられ、各曲輪間は堀で区画されています。
本丸は約60m平方の正方形に近く、急崖になっている東側を除く三方を高さ2mの土塁が取り囲み、その外側には深い空堀が設けられています。虎口は南北2ヶ所にあり、南側が大手、北側が搦手です。

中山城縄張図

中山城跡南東面全景(道の駅・中山盆地にて撮影)
IMG_1711

中山城跡南東山麓(国道145号線沿い)にある城址碑と説明板
中山城跡の南東山麓の国道145号線沿いに城址碑と説明板があり、そこが駐車場になっています。尚、群馬県といえば「上毛かるた」で有名なようですが、高山村には独自の「高山かるた」というのがあるようで、その一つ「れ:歴史を語る中山城址」の立札が立っていました。
ここに駐車して登城ですが、今回は妻と息子夫婦や5歳と10歳の孫も一緒の登城です。

IMG_1592

中山城跡の東麓を流れる城東川
駐車場から国道145号線を東へ歩いて行くと、城跡の東面が見えてきます。城跡の東麓には城跡に沿って城東川が流れています。川幅は決して広くありませんが、それなりに水堀の役目を果たしていたのでしょうね。
IMG_1596

三の丸と捨曲輪間の堀切(堀底道)へ登る坂道
国道145号線をさらに50mほど東進すると、左(北)へ曲がる道があるので曲がります。そこから50~60mほど北進し、次に左(西)へ曲がる道を50mほど西進する城跡の東麓に突き当り、道が左右に分かれます。右へ曲がると本丸跡へ、左へ曲がると三の丸と捨曲輪間の堀切(堀底道)への坂道です。まずは本丸周囲の郭を見て廻るべく左の坂道を登って行きました。
IMG_1600

道の駅・中山盆地全景
坂道からは左前方(南東)にヨーロッパのお城のような建物の「道の駅・中山盆地」がみえます。最初、この建物が見えた時には、同じ高山村にあるロックハート城かと勘違いしてしまいました。ロックハート城とは1829年に築かれたイギリスの城で、1987年~1993年にここ高山村に移築・復元したという珍しい城で、決して模擬城ではありません。石のテーマパークになっているようなので、また、近くに来た際に時間に余裕があったら一度行ってみてもいいかなと思っています。
IMG_1601

三の丸と捨曲輪間の堀切(堀底道)
坂道を登り切り右へ曲がると三の丸と捨曲輪間を断ち切る堀切へ出ます。三の丸側(右)は高さ3m近くあり、捨曲輪側はそれ以上の高さがあります。往時は堀底道としても使用されていたのでしょうね。
IMG_1603

三の丸の西下の腰曲輪?、空堀?
堀底道を西進し降りて行くと、三の丸下に腰曲輪のような平坦地があります。現地の説明板の縄張図によると空堀となっていますが、今では腰曲輪のような地形です。
IMG_1609

捨曲輪
捨曲輪跡は大部分が林に覆われていますが、北西部の一部が畑地として利用されています。
IMG_1607

三の丸
三の丸跡は、今では大部分が畑地となっています。ここから遺構を見付けながら北の方へ向かって歩いて行きます。
IMG_1611

二の丸と三の丸の南北間を区画する空堀(堀切)
三の丸の中央辺りから東側の急崖まで延びる当空堀はそれほど深くありませんが、それでも堀底から二の丸(左)への高さは2m以上はあるでしょう。ただ、二の丸が全くの藪状態なのが残念です。
IMG_1614

二の丸と三の丸の東西を区画する空堀
本丸西側の二の丸と三の丸北部分を区画する空堀は、かなり埋まっており今では農家の方の車や耕運機などの通り道としても使用されているような・・・?。
IMG_1615

【本丸東側の二の丸の南端部から見下ろす本丸周囲の空堀】
藪になった本丸東側二の丸の南端部から、この深い空堀を見つけた時には、その規模の大きさに驚きました。ただ、残念ながら空堀の手前はあまりにもひどい藪で堀底へ降りて行くどころか、写真を撮るのさえ大変でした。
(本丸南側の空堀)
IMG_1619

(本丸南西角の空堀)
IMG_1618

(本丸西側の空堀)
IMG_1620

北曲輪
三の丸の北端部辺りから帯曲輪や北曲輪辺りは、現地説明板の縄張図から、かなり改変されているようで、途中、林の中に2本ほどの空堀跡らしきものも見付けましたが、それがどの空堀なのか分かりませんでした。この林は、多分、北曲輪だと思いますが・・・。
IMG_1625

北曲輪の北側の空堀(堀底道)
この空堀(堀底道)が中山城の北限になりますが、山城を外部から断ち切るには、あまり深いとは言えず、深さ2mほどです。
IMG_1638

北曲輪東側の空堀
この空堀も、あまり深くなく、たまたま上写真の堀底道を東へ向かって歩いて行く途中に、右上にたまたま見つけた登って行って撮ったものです。
IMG_1639

【本丸へ向かう】
(分岐点右側に建つ本丸への案内板)

結局、城域を一周するように歩き、再び、最初の登城口へ戻って、いよいよ本丸跡へ向かいました。写真は三の丸と捨曲輪間の堀切(堀底道)への坂道と本丸へ左右に分かれる分岐点から撮った写真で、右前方に「中山城址本丸跡⇒」の案内板が立っています。
IMG_1709

(下曲輪)
分岐点の案内板に従って、城跡沿いの道を北進すると下曲輪へ出ます。そして、左前方に本丸跡への坂道が見えて来ます。ここにも「中山城址本丸跡」への案内板が立っています。
IMG_1649

(本丸跡への真田街道の幟が立ち並ぶ坂道)
本丸へ登る坂道脇には「真田街道」と描かれた幟が立ち並んでいます。当城は後北条氏による築城で、多少は真田氏とも争奪戦などはあったでしょうが、真田氏とは、それほど深い関連はないと思われる城ですが、さすが真田氏の人気は凄いですね。第一、真田街道なんて名前聞いたことなかったんですが、真田氏 が統治した地を結ぶ街道の通称で、現在の国道144号、145号、120号などを呼ぶようですね。勿論、この坂道は往時はなく、近年になって本丸跡見学のために造られたものでしょうがネ。
IMG_1650

【本丸周辺】
本丸は約60m平方の正方形に近く、急崖になっている東側を除く三方を高さ2mほどの土塁が取り囲み、その外側には深い空堀が設けられています。虎口は南北2ヶ所にあり、南側が大手、北側が搦手とのことです。
(本丸跡)
坂道を登り切ると本丸跡へ出ます。正面奥の本丸西側の土塁には祠があり、その左手前には本丸跡の石碑、さらに右手前には説明板が設置されています。
IMG_1658

IMG_1662

本丸跡と本丸周囲(東側を除く)の土塁
写真右手前が北側土塁、右奥が西側土塁、左奥が見辛いけど南側土塁で、写真は本丸跡の西側3分の2ほどが撮れています。
IMG_1702

(土塁)
本丸西側の土塁
土塁の高さは本丸内から2m、或いはそれ以上ありますかねえ。
IMG_1699

本丸西側の土塁上
土塁の分厚く、右下には深い空堀が見えます。
IMG_1701

本丸北西角の土塁
本丸北西部は多少なりとも藪が少なく、写真でも土塁がよく分かって戴けるかと思います。尚、真ん中の木の奥辺りが搦手虎口ですが、木に隠れて見えません。

IMG_1665

搦手虎口
本丸北側土塁のかなり西側に搦手虎口が確認できますが、このすぐ(左)下は急崖の空堀です。往時は木橋でも架けられていたのでしょうかねえ?
IMG_1703

本丸南西角の土塁
本丸西側は、かなり深い藪になっており、この南西角付近の土塁も写真では見辛いかと思いますが、実際は分厚くてしっかりした土塁が残っています。また、写真左奥に大手虎口があるのですが、藪に覆われていて見えません。
尚、ゆうに深さ10mはある堀底へは、ここから斜度45度近くあるのではと思われる急崖を降りて行きました。

IMG_1669

(空堀)
本丸西側の空堀(土塁上から撮影)

本丸跡に到着後、最初に正面(西側)の祠脇から土塁上に登って、土塁下を見てビックリ仰天というか感激!! ゆうに深さ10mはある途轍もない大規模な空堀ですw(*゚o゚*)w。斜度も45度とはいわないまでも、それに近いくらいあるのではないでしょうか。堀底へ降りたいと思いましたが、とても無理だと一旦は諦めたものです(;´▽`A``。
IMG_1667

(堀底にて撮影) ~画面をクリックにて拡大画面に~
一旦は堀底へ降りるのを諦めましたが、その後、南西角の土塁上から強引に降りて写真を撮りました。右上の本丸土塁上には妻や息子の嫁や孫がいて、颯介が手を振っているのが見えますが、この堀が如何に深いかが分かって戴けると思います。
IMG_1678

本丸南側の空堀(土塁上から撮影)
本丸南西角の土塁上から撮ったものですが、この南側の空堀も良好に残り見応え満点です。
IMG_1671

(堀底にて撮影)
南側の空堀は東側の急崖まで延びていますが、それがよく分かります。本丸を見学後に駐車場に戻る時に、下曲輪から東側の急崖を見上げたら、その凹みがはっきり分かりました。
IMG_1675

本丸北西角の空堀(土塁上から撮影)
一旦北側の堀底から四苦八苦しながら本丸土塁上へ戻り、今度は土塁上を北へ進みました。当写真は本丸北西角の土塁上から撮ったものですが、本丸角の空堀は北西方向へも延びていて、本丸北側と西側の二の丸が断ち切られているのがわかります。ただ、とんでもない藪でとても突入して行く勇気はありませんでした( ̄ー ̄;。
IMG_1689

本丸北側の空堀(土塁上から撮影)
IMG_1691

(堀底にて)
本丸北側の空堀は、本丸側が少し崩れているのか、斜面中央辺りが少しふくらみ堀底が狭くなっています。尚、この空堀も東側の急崖まで延びているのが分かります。
IMG_1694

下曲輪から本丸南側の空堀を見上げる
下城時に再び下曲輪を通り、本丸東側の急崖を見上げると、本丸南側の空堀が本丸(右側)と二の丸を見事に断ち切っているのが分かります。
IMG_1647

【中山城跡の御朱印】
何年か前から日本100名城の御朱印があるのは知っていましたが、他の城跡にも広まっているとは知りませんでした。しかも、決して有名とはいえない「中山城跡」の御朱印まで、道の駅・中山盆地で販売されていることを知りましたw(*゚o゚*)w。
尤も、1600城以上もの城めぐりをし、今更、集める気はありませんが、今回の登城は息子夫婦がセットしてくれた金婚式記念の猿ヶ京温泉旅行の際に登城したので、記念にと思い特別に購入することにしました。
御朱印は元々は神社仏閣の「参拝証明」のようなものですが、かなりの売上げがあることに目を付けた抜け目のない人が、お城ファンが増えた今、城の御朱印も販売し始めたのでしょうね(苦笑)。
御朱印は、20年以上前の京都在住時代に、妻が随分多くの神社仏閣を廻って御朱印を貰い始めてから、今では12冊もの御朱印帳にビッシリです(*^_^*)。最近は御朱印を購入するのは止めましたがネ。
さて中山城跡の御朱印ですが、神社仏閣などと違い、その場で書いてもらうわけではないので日付が入っていません。そのため、自分で記入するしかないのが残念ですね。

IMG_20211101_0002

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント