二の丸北西隅の石碑と説明板
上杉謙信が関東出陣の際に築いた、その後、真田・後北条の攻防戦が繰り返された
所在地
群馬県渋川市赤城町棚下
形状
崖端城
現状・遺構等
現状:畑地、山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、馬出、虎口、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/06/17
歴史等
長井坂城は、旧沼田街道の長井坂にあり、北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に臨む断崖城で、南北260m、
東西180mほどの囲郭式の山城である。
永禄3年(1560)年長尾景虎(上杉謙信)が関東出馬の際に、この地に陣を張ったのが始まりとされ、その際に、降伏した沼田顕泰(万鬼斉)
をここにて引見したという。
天正の初めに後北条氏の持城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めた。
天正6年(1578)真田氏が沼田城を略取すると、
長井坂城が、鉢形城を核とした後北条方の北方最前線の要となって、
後北条・真田両氏激突の攻防が繰り返されたが、天正18年(1590)の小田原城の落城とともに、
廃城となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
長井坂城跡は、関越自動車道の長井坂トンネルの真上にある。
県道255号線から東へと、城跡のある台地上へ登きると、そこに想像もしなかった光景に出くわした。まるで、
北海道の十勝平野や美瑛のパッチワークの丘を思い起こさせるような景色だ。
二の丸と三の丸跡は畑になっているが、二の丸を取り囲む土塁と堀がしっかりと残っている。
二の丸の北西に「旧沼田街道」「馬出し跡」の標柱がある。沼田街道は、ここから、本丸と二の丸の間の堀底道を南東へと続いていたようだ。
二の丸の西にある本丸は一段高く、林になっている。西側は、まさに断崖絶壁、他の三方は土塁がめぐっている。
登城前には、ここまで遺構が良好に残っているとは思ってもいなかった。見応え充分な城址だ。
(2008/06/17登城して)
ギャラリー
まるで北海道
台地上へ登きると、北海道の十勝平野や美瑛のパッチワークの丘を思い起こさせるような景色が拡がっていた。
三の丸虎口
手前両側に空堀があり、ここを入ると旧沼田街道へと出る。
三の丸
三の丸は二の丸を包み込むように外郭線をかたどっている。三の丸は、今は広大な畑になり、
赤いシャツを着た案山子が立っていた。写真右の窪地は二の丸を取り囲む堀。
二の丸を取り囲む堀と土塁
堀・土塁ともに良好に残っている。この北角隅の辺りは特に高く、櫓が建っていたのかも。
二の丸
二の丸北西隅には石碑と説明板が立てられている。今は、畑になっているが、
周りを取り囲んでいる土塁と堀は良好に残っている。
旧沼田街道
「南雲宿へ」「森下宿へ」と書かれた旧沼田街道の標柱。ここから手前へと本丸・
二の丸間の堀底道へと続いている。写真左は馬出し跡。
馬出し
二の丸虎口の西にある「馬出し跡?」。多分、街道を監視する機能を持った曲輪だったのだろう。
写真右から左手前へと旧沼田街道が通っていた。
本丸
本丸は、二の丸の西に位置し、一段高く、林になっている。手前左は堀底道(旧沼田街道)。
本丸西の急崖
本丸西側はまさに断崖絶壁になっていて、今にも崖崩れになりそうで足がすくむようだ。
本丸土塁
本丸は、西側の絶壁部を除く三方には土塁がめぐっている。
北側の永井の沢の急崖
城の北側は永井川が織り成す深い谷があり、関越自動車道が通り、城の下をトンネルが貫通している。