沼田城のシンボル、復元された本丸太鼓櫓
真田昌幸の執着の地・沼田も沼田真田氏五代で改易に
別名
蔵内城、倉内城、鞍打城、霞城
所在地
群馬県沼田市西倉内町
形状
崖端城(比高:70m)
現状・遺構等
現状:沼田公園、市街地
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、水堀、模擬鐘櫓、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2001/08/17
2008/06/17
歴史等
沼田城は天文元年(1532)沼田氏12代の沼田顕泰によって築城された。北は越後へ、
西は吾妻郡を経て信濃へと通じる交通の要衝であり、その為、越後の上杉氏、相模の後北条氏、信濃上田の真田氏、
地元の豪族沼田氏の間で激しい攻防戦が繰り広げられている。
永禄3年(1560)、上杉謙信によって落城し、謙信の関東経営の拠点となった。しかし天正6年(1578)3月、謙信が病没すると、
北条氏政が支配していたが、天正8年(1580)5月、真田昌幸の策略により開城、以後、真田氏が支配した。この頃、真田氏の本拠は、
信濃上田城であったが、永禄5年(1562)鳥居峠を越えて、上野岩櫃城を占領し、
拠点にして沼田まで進出した。
沼田城占領とともに、昌幸は後北条勢の侵略に見舞われたが、そのたびに撃退している。
天正10年(1582)武田氏が滅亡後に織田氏家臣の滝川氏が入城したり、天正17年(1589)豊臣秀吉の裁定に従って、
後北条氏に沼田城を引き渡したこともあったが、都度、城を取り戻し、嫡男の信之に託している。
関ヶ原合戦で徳川方に従った信之は、合戦後、昌幸の旧領をすべて与えられた。信之は沼田城を長男の信吉に任せ、自身は上田城に移った。
元和8年(1622)信之は信濃松代へ転封となり、
真田氏は、松代10万石の本家と沼田3万石の分家に別れている。
松代の本家は、明治維新まで存続したが、沼田の分家は、天和元年(1681)
暴政と江戸両国橋架け替え用材調達の遅延を理由に改易に処され、翌年、城は破却された。
元禄16年(1703)本多正永が再建し、黒田氏・土岐氏と替わって明治に至った。
【沼田氏と城】
天慶3年(940)
荘田城(井戸上町)城主初代沼田景泰、小沢城に移るまで8代158年間
応永12年(1405) 小沢城(町田町)城主 初代沼田景朝~泰輝、幕岩城に移るまで4代114年間
永正16年(1519) 幕岩城(下木田)城主初代沼田顕泰、 沼田城に移るまで13年間
天文元年(1532) 沼田城 城主初代沼田顕泰(三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰)
【沼田真田氏】
関ヶ原合戦後、真田信之は、父親・
昌幸の旧領をすべて与えられた。元和2年(1616)、信之は居を信濃上田に移したが、
沼田は嫡子・信吉に譲り、沼田真田家は別家として存続した。寛永12年(1635)、信吉の長子・熊之助が7歳で夭折し、同16年
(1639)信吉の弟・信政が転封してくる。明暦2年(1656)信之が隠居し、信政が松代真田家を相続し、信吉の庶子・
伊賀守信利が5代城主となるが、天和元年(1681)11月、改易となる。
『「別冊歴史読本・真田幸村(新人物往来社刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
沼田城は、池波正太郎の真田太平記に最も多く出てくるお馴染みの城である。真田氏、特に昌幸が上田・真田についで固執した地であり、
第二の故郷と云ってもいいような所で、「真田ファン」の私としては必見の城址である。
沼田市民もやはり真田氏は誇りなのだろう。城址公園入口には、大きな門が建ち、「上州真田の里・沼田城址」のでっかい文字が。
残念ながら城址としては、外郭堀は近年各所が埋められ、遺構は残り少ない。
二の丸は、公園(野球場やテニスコート等)となり、本丸跡には御殿桜のある櫓台と天守台跡が認められるにすぎない。
他に、土塁や堀跡がいくらか残っている程度であるが、本丸から平八郎石のある古城辺りまでは、城址としての面影を残している。
(2001/08/17、2008/06/17登城して)
ギャラリー
(沼田公園入口)
全国には、私も含めて、真田ファンは多い。沼田市民もやはり真田氏は誇りなのだろう。城址公園入口には、
大きな門が建ち、「上州真田の里・沼田城址」のでっかい文字が。失礼だけど、やっぱり土岐氏じゃあ地味だよねえ!?
【本丸】
(天守台跡)
真田氏初代城主信之が慶長年間(1596~1614)に建造した天守は、推定18m四方・五重であった。
関東における五重の天守は沼田城以外は江戸城だけであった。天和元年(1681)5代信利の改易後、幕府により破却された。
(御殿桜)
沼田城の五重天守が雄姿を誇っていたころに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木。天和元年(1681)
11月、沼田真田氏は改易となり、城郭が跡形もなく取り壊された後も、この御殿桜は400年の風雪に耐え、毎春咲き続けている。
(本丸西櫓台)
発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台に伴うもので、
出土した瓦などより真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利の改易により、城は跡形もなく破却されたと云われていたが、
壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上の時を経て往時の姿を現した。
㊧本丸西櫓台の崖に面する(西と南側)石垣、㊨発掘された本丸西櫓台の石垣と石段
石垣の全長27.5m、高さ0.8~2.0m、石段の幅2.4m
(本丸堀)
本丸と二の丸間に設けられた堀は、本丸側(写真右)が唯一石垣で積まれた沼田城で最大規模の堀であった。
この池は、その名残りである。
【古城(捨曲輪)】
㊧古城(捨曲輪)、㊨平八郎石
本丸から平八郎石のある古城辺りまでは、城址としての面影を残している。
㊨真田昌幸が策を用いて要衝沼田城を奪取した際、沼田平八郎景義の首実験をした後、置いたとされる石。亡骸は小沢城址(町田町)に葬り、
沼田大明神として祀ったが、首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んでいったという。
古城(捨曲輪)東側の空堀
本丸との間の空堀とこの空堀は非常に深く、宅地が迫っているが形状としてはよく残っている。
【二の丸】
二の丸は、公園(野球場やテニスコート等)
となり、一部土塁が残っている。
【三の丸土塁と堀】
公園入口の駐車場(写真右)
脇に三の丸土塁が僅かに残っている。土塁左は堀跡で、今は道路になっている。