JR吾妻線郷原駅ホームから見上げる岩櫃山、城は山の裏側へと続く尾根筋中腹にある。
難攻不落の城も真田幸隆が攻略し、後に真田家の拠点に
所在地
群馬県吾妻郡東吾妻町原町平沢
形状
山城(標高:594m、比高:平沢から80m程、吾妻街道から200m弱)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2001/08/17
2008/06/17
歴史等
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の山腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、
吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。
城郭の規模は1.4km平方と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、
駿河の久能城と並び武田領内の3名城と称されました。
その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。
ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。
こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正2年(1574)に幸隆が世を去り、
岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正18年(1590)北条氏の滅亡により、
信幸は初代沼田城主となり、
岩櫃城は沼田城の支城として、
重臣出浦対馬守を城代としました。
そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した慶長20年(1615)の一国一城令により、400余年の長い歴史を残し、
その姿を消しました。
『現地案内板より』
現況・登城記・感想等
真田家と非常に大きく関わる城で、特に幸隆の城落としの真骨頂を見せ付けた城ということもあり、
また岩櫃山の見るからに天険の要害といった強烈な山容を写真で見て、前々から絶対に来て見たいと思っていた城址である。
城そのものは山の中腹にあり、登ってみても、それほど天険の要害といった感じは受けなかった。また、
着くのが夕方になってしまい時間もなかったので急いで本丸へと登っただけといった感じだった。もう一度来てじっくり見てみたいし、
また城だけでなく山の頂上にも登ってみたいものである。
(2001/08/17登城後に)
今日は、天気がもうひとつ。上田への通りがけに、郷原駅から岩櫃山の写真だけ撮った。電線が邪魔だ~!!
(2006/09/17)
ほぼ7年ぶりの登城だ。今日の群馬県の城めぐりは、この岩櫃城登城をしたいために、このガソリン高の時期、相当な距離を走ることになったが、
充分満足することができた。
前回の大急ぎの登城時のイメージとは全く違い、「武田氏滅亡時に、真田昌幸が勝頼を連れて来ようとした」だけあって、
この城が実に堅固な城であったのを実感することが出来た。
天然の要害地であることに加えて、当時としてはかなり大規模な空堀(横堀、竪堀、堀切)が掘られている。あまり整備されていない所も、
よく見ると確認でき、各曲輪間は全て空堀があったようだ。
特に、本丸南下は、横堀と竪堀が複雑に折り重なり、3重になっている堀は、折りもあり見た目にも素晴らしい。
尚、登城口から本丸へは約10分ほどで着く。
(2008/06/17登城して)
ギャラリー
岩櫃山(JR吾妻線郷原駅ホームから撮影)
この猛々しい山容は、如何にも要害の地を想像させてくれるが、岩櫃城は、この山ではなく、
この山から裏側へと続く尾根筋中腹(丘陵)にある。この岩櫃山へも、一度は登りたいとは思っており、
しかも岩櫃城本丸跡からも山頂へと登る道(本丸跡から約1km)はあるが、折角だからと、近くにある他の城めぐりをしてしまう。今回も、
やはり登らなかった。
岩櫃城略図
登城口(大手口)
登城口には休憩所があり、岩櫃城の説明と岩櫃山登山道の案内パンフが置かれている。
登城道
登城口から登り始めると、早速このような堀底道へと出る。
中城への虎口
堀底道をしばらく進むと、正面に中城の土塁が見え、その手前両側に喰い違いになった、
往時としてはかなり大規模な空堀がある。幅4~5mほどであろうか。
中城手前の空堀(上写真右側の空堀)
堀底に木々が生い茂り、写真では見辛いが、実際にははっきりと確認できる。
中城
中城への喰い違いになった虎口を入ると、右側に藪があり、㊧のような標柱が立っている。
そこをさらに進むと㊨のような整備された(確か栗林だったと思う)所へと出る。中城は、半分が藪で、半分が整備されている。
中城横(南西側)の堀底道
上写真の所(中城)を過ぎ、右(北西)へと曲がり、堀底道を登って行く。
二の丸下の腰曲輪の土塁
中城横の堀底道を登って行くと、右側に土塁が現れる。二の丸南東下には何段かの腰曲輪があったようで、
この土塁は最下段の腰曲輪の土塁である。手前両側は藪になっているが、よく見ると空堀が確認できる。
㊧本丸南下最下段の空堀、㊨二の丸への虎口
上写真のように、右側に土塁を見ながら登って行く。この道は、㊧のように空堀へと続く。この空堀は、
さらに左(南)へと曲がり、竪堀となって山裾へと落ちて行く。㊨の階段を登って二の丸へと行く。
本丸2段目の空堀
上の右写真の階段を登ると、またまた空堀が。この空堀も左(南)へと曲がり、
竪堀となって山裾へと落ちていく。
本丸下の空堀
本丸の南と東には空堀が廻っている。この南東から南にかけて掘られた空堀は、折りがあり何ともかっこいい。
写真右上が本丸。この空堀も、左(南)へと曲がり、竪堀となって山裾へと落ちていく。
本丸・二の丸間の空堀
この本丸・二の丸間の空堀の奥(北)は絶壁となっている。手前は上写真の空堀に繋がっている。左側が本丸、
右側が二の丸。
二の丸から本丸を眺める
正面の本丸上が本丸で、その下に上2枚の写真の空堀がある。
二の丸から本丸へと
二の丸から空堀を渡り、階段を登って本丸へと。
本丸
本丸は2段になっており、下段に東屋が建てられている。北側には土塁が設けられている。
㊧は下の段から上の段を。左端の土塁は櫓台である。㊨は上の段から下の段を。
本丸から二の丸を振り返る
㊨は、二の丸北部分。北側は急崖となっている。そして、前方に一部眺望が開けている。
本丸から南方面の眺望と竪堀
本丸から南方面の眺望は素晴らしい。真下を見ると、
先程見てきた空堀から続く竪堀が山裾へと落ちていくのが見える。
石碑と説明板
本丸上の段には居館があった。そこに、城址碑と説明板が設置されている。
本丸を西側から
上の段が居館跡。
㊧北側土塁と、㊨北側の急崖
本丸北側には東西に長く土塁が続いている。その下は、急崖になっており、要害堅固な城であったのが偲ばれる。
北枡形虎口
本丸北西部には、枡形虎口が。
【天狗丸】
㊧登城口(大手口)手前に突出した台地状の出丸で、真田の忍び集団の諜報活動拠点で、
大手の防御も兼務していたという。
天狗丸から登城口(大手口)
方面を
右奥の山は岩櫃山で、左の山が岩櫃城址。右下に駐車場があり、10台ほど駐車できる。中央やや右が登城口。
天狗丸は、今は畑が広がり、北の方に岩櫃神社が祀られている。右奥の山は岩櫃山で、
左の山が岩櫃城址である。