鉢形城址全景(荒川に架かる正喜橋の上から)
河越夜戦後、後北条氏が獲得した天然の要害城も、豊臣の大軍の前に落城
所在地
埼玉県大里郡寄居町鉢形
形状
崖城
現状・遺構等
現状:山林、宅地、国指定史跡
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石垣、模擬木橋、石碑、説明板他
【国指定史跡】
指定日:昭和7年4月19日
指定理由:関東地方における戦国時代の代表的な平山城で、要害堅固な城郭構造がよく保存されている。
面積:24万㎡
満足度
★★★★☆
訪城日
2002/09/27
2006/07/16
歴史等
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられている。
景春は、主家に反旗を翻し、「長尾景春の乱」(文明8年)を起こしたが、2年後には大田道灌に攻められ、景春は秩父へと敗走し、
城は上杉顕定が居城し、山内上杉氏の持城となった。
天文15年(1546)の河越夜戦で上杉氏が北条氏に大敗すると、武蔵の土豪は次々と北条氏に帰順した。天神山城(秩父郡長瀞町)
主の藤田重利(康邦)には重連という嫡男がいたが、北条氏康の3男氏邦(氏政・氏照の弟)を養子に迎えいれた。氏邦は、最初、
天神山城を居城としていたが、永禄3年(1560)ころ、鉢形城に大改修を加えて移った。一方、養父・重利は用土城(寄居町用土)
を築き居城としていたが、弘治元年(1555)に没している。
重利の死後、その跡は重連が継ぐが、天正6年(1578)重連は、氏邦によって毒殺されてしまう。重連の弟・信吉は、
身の危険を感じ越後の上杉景勝のもとに走った。ここに、氏邦は鉢形城周辺から藤田色を一掃した。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原攻め」の際には、氏邦は出撃論を唱えるが退けられ、鉢形城に戻って3,
500の兵で篭ることになった。同年5月13日、豊臣軍の前田利家と上杉景勝を中心とする2万余の大軍が鉢形城に来襲した。
城方の抵抗が頑強であったので、さらに増援され豊臣勢は5万もの大軍となった。寄せ手の中には、藤田信吉の姿もあったという。
篭城1ケ月後の6月14日、ついに、城兵の助命を条件に城を明渡し、その後鉢形城は廃城となった。
氏邦は前田利家の領地加賀金沢
(石川県金沢市)に客将として迎えられ、異郷の地で没している。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「鉢形城歴史館パンフレット」参照』
現況・登城記・感想等
新田次郎の「武田信玄」等々多くの小説にも出てくる印象的深い城で、今回やっと登城することが出来た。
荒川の断崖上に築城された典型的崖城で、荒川の急流、急崖と、その支流、深沢川の渓谷に守られた、まさに天然の要害である。
当時の戦では、攻め手は対岸に陣を取って攻めて成功したと記憶しているが、
私には川の側からの攻撃は絶対不可能のように見えるが不思議である。
土塁等見所も多かったが、城の全体像がよく分からなかった。城址公園として整備中であったが、完了したらまた登城したいと思う。
(2002/09/27訪城後に)
鉢形城は荒川と深沢川に守られただけの、ただの天然の要害城ではなかった。
4年ぶりに登城したら、二の曲輪、三の曲輪の区域が実にきれいに復元・整備されていた。
前回は本曲輪辺りだけを見て帰ったが、二の曲輪・三の曲輪や他にも随分多くの、しかも広い曲輪があり、また、
多くの空堀が随分深く複雑に掘られている。土塁もしっかり残っており、鉢形城が如何に大規模な城であったかがよく分かった。
実に見応えのある素晴らしい城址だと思う。
(2006/07/16登城して)
ギャラリー
石組み排水溝(於三の曲輪)
三の曲輪の復元石積み土塁と復元四脚門 ~クリックにて拡大画面に~
石積みが段々になっているのが特徴的である。
三の曲輪の井戸
復元四脚門と虎口と復元石積み土塁 ~クリックにて拡大画面に~
虎口付近の工事中の様子
伝秩父曲輪(復元四阿)
秩父曲輪の井戸
二の曲輪と三の曲輪間の空堀 ~両写真共クリックにて拡大画面に~
櫓台と橋
パンフにはないけど復元?模擬?かっこいいことはかっこいいけど。何かなあ!
㊧大手(手前にはかなり広くて深い堀が)、㊨桔梗
(大手手前の削平地には桔梗が群生していた)
深沢川(荒川とともに、この深沢川も、まさに天然の堀である)
鉢形城歴史館傍の外曲輪と土塁
この土塁はかなり幅も高さもある。
鉢形城歴史館内に復元された「櫓門」
門の上には武器を持った人?が待ち構えている。
伝御殿曲輪
本曲輪跡石碑
本曲輪から荒川を見下ろす(まさに絶壁である)
笹曲輪
笹曲輪のところに一部残っている石垣
鉢形城址の碑(笹曲輪の手前に)