加賀 金沢城(金沢市)

石川門

前田、加賀百万石の城

別名

尾山城

所在地

石川県金沢市丸の内

形状

平城

現状・遺構等

【現状】金沢城址公園
【現存遺構】石川門・菱櫓・三十間長屋・石垣・堀
【復元遺構】橋爪門・橋爪門続櫓・二之丸菱櫓・五十間櫓

満足度

★★★★★

訪城日

1989/08/28
1995/07/15
2006/05/02

歴史等

天文15年(1546)、北の浅野川と南の犀川に挟まれた小立野台地と呼ばれる丘陵上に、 一向一揆の本拠地として本願寺の支坊金沢御堂(尾山御坊)が建てられた。これにより、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
しかし、天正8年(1580)信長の命により北陸平定を進める柴田勝家軍の佐久間盛政(勝家の甥)が攻略し、13万石を与えられた。盛政は、 一揆に対するために御坊を修築し、防備を固め尾山城と称した。
その後、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦で勝家を破り、天正11年(1583)前田利家が入封すると、高山右近に縄張りをさせて大改修し慶長15年 (1610)に完了した。文禄元年(1592)に2代利長が修築、慶長4年(1599)に城を拡張し新丸を築造、 大手堀を掘り外周に内惣構堀を築いた。3代利常の頃に金沢城という呼称が定着したようである。また、 御坊のあった小立野台地は100万石の前田家でさえ持て余す大きさであったので、城は西半分を使って築かれ、東半分は兼六園とした。 城と兼六園の間は百間堀と呼ばれる深い水堀で区切られた。当然、兼六園は控えの城としての役割を持ち、城の東側の防衛を担っていた。
また、利常は金沢の南北を守る城として、北には兄利長の隠居城として高岡城を築き、 南には小松城を修築し自らの隠居城とした。 高岡城は、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となったが、城の構造はそのままになっており、 有事の際にはすぐ整備できるように江戸時代を通じて管理されていた。
さらに、自分の息子2人を北の富山と国境の大聖寺に分藩させ、富山城大聖寺城を守らせた。
なお、金沢城の本丸には5層の天守があがっていたが、慶長7年(1602)に落雷で焼失したが、以後は幕府に遠慮して、二の丸菱櫓(三階櫓) を持って天守の代用とした。
金沢城は、加賀100万石前田氏が13代270年在城し明治を迎えた。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』

感想等

加賀100万石のお城ではあるが、訪問した当時はまだ内部が大学で石川門辺りを見るだけで、 どちらかというと兼六園を見物がてら一寸寄って見たという感じであった。しかし石川門とその隣に続く太鼓塀は城には珍しく海鼠塀で、 非常に印象に深い。近年大学が移転され、金沢城公園として二の丸に菱櫓・五十間長屋・橋爪門・橋爪門続櫓が忠実に復元されたそうである。 是非、見に行きたいものである。
(1989/08/28、1995/07/15訪城して)

11年ぶりに登城しました。すっかり変わっていました。城内を全て隈なく見て回れ、現存遺構もかなり残っており最高でした。 というわけで、お勧め度も一気に10点満点に変更しました。
現存遺構建造物は石川門・30間長屋・鶴丸倉庫の3つだけだそうですが、石垣が実に素晴らしい。まさに、石垣の宝庫です。特に、 菱櫓から土橋門近くにまで続く二の丸北面石垣は少し苔むして鄙びた情緒を醸し出して最高です。そして、 30間長屋の土台の石垣も青戸室石と赤戸室石がじつに旨く調和しており、芸術的な美を感じます。また、 その海鼠壁が年月を経て何ともいえない味わいがあります。
というわけで、城内を廻るのに5時間近くもかかりました。再登城して本当に良かった。
(2006/05/02登城して)

ギャラリー

金沢城平面図

百間堀跡から見た石川門

百間堀
金沢御堂陥落後、佐久間盛政の時代(天正8年~11年、1580~1583)に造られ、前田利家の入城後、その子・ 前田利長により改修されたといわれる。小立野台と金沢城を分断する防衛上重要な水堀で、長さ約270m・幅68.4m・水深約2.4mあり、 その大きさから百間堀と呼ばれたようである。明治43~44年(1910~1911)の道路工事により、現在のような姿になった。別名・ 蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂の時代、 極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われている。


石川門(現存)
金沢城の搦め手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門・橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。 櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門に造られている。宝暦の大火(1759)の後、天明8年(1788)に再建され現在に伝わっている。 昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定された。

 

 

石川門内の枡形
 

河北門跡                      
佐久間盛政の頃、大手門は西丁口にあったが、前田実質上の大手門に当り、石川門・橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。 大きな櫓門を備えた枡形門で、両脇に四十間長屋・九十間長屋を備えていた。                          
 

大手門口・尾坂門跡
佐久間盛政の頃、大手門は西丁口にあったが、前田利家が入城した後に大手門を尾坂口に改めた。 尾坂門も大きな枡形で城内でも屈指の大きな櫓台を備えているのが、現在残っている絵図では全て「櫓台」 として表記され櫓がのっている事実は確認されていない。


五十間長屋(復元)
菱櫓(右)と橋爪門続櫓(左)を結ぶ二層の多聞櫓。普段は倉庫として用いられるが、非常時は戦闘のための砦となる。石落しを各所に備え、 格子窓は鉄砲狭間となる。

菱櫓(復元)
二の丸で一番高い三層の物見櫓。尾坂門・河北門・石川門を一望できる。石落しを多く持ち、実戦的で、なおかつ華やかな櫓。

 

㊧橋爪橋(復元)と橋爪一の門(復元)、㊨橋爪門続櫓(復元)と橋爪一の門(復元)
橋と一の門(高麗門)は、二の丸大手である橋爪門枡形の入口を構成する。 橋爪門続櫓は二の丸大手の橋爪門枡形に付随する三層の物見櫓。三の丸で戦闘が起きた時の指揮所。
 

二の丸北面の堀(菱櫓から土橋門近くまで続く堀)
実に美しい切込みハギの石垣である。また、苔むした石垣と堀の水の青い色との調和が素晴らしい!
 

㊧土橋門、㊨土橋門の亀甲石
北の丸と三の丸をつなぐ土橋に面して設けられたことから、「土橋門」といわれていた。枡形門に造られて、 重厚な櫓門であった。
土橋門の石垣に組込まれた6角形の石(亀甲石) は水に親しむ亀を表したもので、防火の願いが込められている。文化年間の大火でも、 この石のおかげで土橋門の焼失が免れたと伝えられている。

 

数寄屋敷
この付近は数奇屋と呼ばれ藩主の側室の住まいがあった所である。

数奇屋敷石垣
石積みは切込みハギで、刻印のある右側の石垣は創建時のもので、 表面がきれいに整えられている左側の石垣は文化5年の改修時のものである。
右写真の左側の石は、小石で軽く叩くと、中が空洞であるかのように軽い「カア~ン」という音がする。不思議だ!
 

玉泉院丸の門跡
玉泉院丸は利長夫人(織田信長の五女・永)が、利長死後ここに居住した。 今は鬱蒼とした森と体育館になっているが復元工事中のようで、近い将来その姿が見られそうである。

玉泉院丸庭園に面した石垣(色紙短冊積み石垣)
玉泉院丸に面した斜面一帯には趣向を凝らした切込みハギの石垣が見られる。石垣の高さや向き、 石の積み方から細部の加工に至るまで、表情豊かな石垣群は玉泉丸庭園の借景の役割を担っていた。
 

極楽橋と三十間長屋
二の丸と本丸の間の空堀に架かる。極楽橋の名前は金沢御堂の時代から伝わったものとする伝承があるが、確かな裏付けはない。 橋の向こうの石段は、わざと歩きにくく、段の高さなどが不揃いにしてあるとのこと。

三十間長屋(現存)
宝暦の大火(1759)の後、長く再建されなかったが、安政5年(1858)に再建された長屋。本来は食器類を納めた倉庫であったが、 江戸時代後期には武器・弾薬を納めたといわれている。昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定された。

三十間長屋の海鼠壁と土台の石
青戸室と赤戸室の石の色の調和がとれ、また、海鼠壁が時を経て薄くなり実に情緒を感じさせてくれる。
 

鉄門
創建は明らかではないが、寛永の大火(1631)以降、二の丸から本丸に入る正門となった。 鉄板を貼った扉が付けられていたことから名付けられた。渡し櫓が乗った重厚な門で本丸の防御にあたっていた。

本丸跡
古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後、前田利家が入城し、天正14年 (1586)頃に天守閣を設けたといわれる。天守閣は慶長7年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた・寛永の大火(1631) 頃までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。

東の丸跡
利長の死後、利常の母・福寿院が芳春院に代わり、人質として江戸に行く。金沢城に戻った芳春院が居住したのが、この東の丸であるとのこと。 尚、福寿院もそれまで、この東の丸に居住していたようである。

 

戌亥櫓跡
本丸の北西角、戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。西と北に「出し」 という出窓が付いた二層の櫓だった。宝暦の大火(1759)の後、再建されなかった。

辰巳櫓跡
本丸の東南角、辰巳の方角に当たることから「辰巳櫓」と呼ばれていた。長屋を備えた立派な櫓が建っていたが、 宝暦の大火(1759)の後は再建されなかった。櫓を支えた石垣は、明治の石垣改修により改変されほとんど残っていない。かつては、 右写真の下の段の所までが櫓台であったとのこと。
 

丑寅櫓跡
本丸が東北角、丑寅の方角に当たることから「丑寅櫓」と呼ばれた。櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年 (1592)の築造と推定され、金沢城の最古の石垣である。宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。

卯辰山(141m)丑寅櫓から
金沢城から卯辰の方角に当たることから、その名が付いたという。眼下に城を見下ろすため、 藩政期は入山が禁止されていたという。


虎口(鶴丸倉庫横)
かつては、ここが虎口になっていたようであるが、戦時中にかなり形を変えられてしまったようである。

鶴丸倉庫(現存)
江戸時代末期に建てられた土蔵で、石川門・三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。 腰の石貼りや窓周りの意匠など文久3年(1863)に建造された成巽閣土蔵(兼六園内)と類似している。 明治以降は軍隊の被服倉庫として利用され、修理もされているが、基本的構造は創建当時のままである。

 

鶴丸倉庫の壁と窓

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コメント

かばき(2009/11/23)

満足度を5点にしてほしい

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