最上段から神浦城跡の段郭を見下ろす
室町時代初期に大串俊長が領主となり神浦氏を称して築いた城
読み方
こうのうらじょう
所在地
長崎県長崎市神浦江川町1310神浦城公園
【アクセス】
長崎市街地より国道202号線を北上します。神浦に入り、神浦川に架かる赤い橋を渡ってすぐの信号を右折します。あとは道なりに坂道を登っていき、T字路の右手に神浦城公園があります。駐車場もT字路付近にあります。
所要時間
今回の見物時間は20分弱でした。
形状
平山城(標高43m、比高40m)
現状・遺構等
【現状】 神浦城公園
【遺構等】 曲輪、掘立柱建物平面表示、炉跡(石組み)、切岸、空堀跡、石碑、説明板、遺構案内板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2019/11/23
歴史等
神浦城は、「新撰士系録」及び「郷村記」によれば、永和年間(1375~79)に大串小次郎俊長が、神浦の在地領主となり、後に神浦氏を称し神浦城を築いたといわれています。
戦国時代になって神浦正俊が大村純忠に背いて後藤貴明に従い、永禄9年(1566)に江串浦で討ち死にしました。このため純忠は、福田左京亮に命じて神浦城を破却したといわれています。
神浦城跡は、標高43mの丘陵上に立地する中世の山城跡で、外海町教育委員会では、神浦城公園の整備に伴い平成16年3月に遺跡の範囲確認調査を実施しました。その結果、炉跡や石組遺構、掘立柱建物跡と考えられる柱穴跡が検出され、丘陵を分断する空堀跡、切岸跡などの遺構が確認されました。
また16世紀前半の中国、朝鮮製の陶磁器、国内産陶器のほか、銭、土錘、宝篋印塔の一部などが出土しました。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
神浦城は4つほどの郭が塁段に造成された城だったようです。
城址公園として整備するにあたって、空堀をはじめほとんどの遺構が破壊されてしまったようで、往時の様子が分かりにくくなってしまっています。
説明板や遺構案内板まで設置されているのですがねえ。
非常に残念な整備の仕方です。
尚、城跡から見下ろす神浦市街と港や東シナ海に浮かぶ島々の光景はなかなかのものです。
(2019/11/23登城して)
ギャラリー
堀切跡
城の背後を切断する堀切の役割を果たしていたのでしょう。ここでは発掘調査で見つかった堀跡の断面をコンクリートで固め、模式的に表現しています。