本丸の石垣
山名祐豊、執念の城も秀吉の第二次但馬征伐で落城
読み方
ありこやまじょう、こありやまじょう
別名
高城、有子城
所在地
兵庫県豊岡市出石町内町
【アクセス】
出石町内町に近づくと、多くの案内板がありますので、すぐ分かると思います。
所要時間
山麓から本丸まで約40分、見学総時間は1時間50分でした。
形状
山城(標高321m、比高約300m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、土橋、石碑、説明板など
満足度
★★★★★
訪城日
2006/09/02
2015/11/11
歴史等
山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、応安5年(1372)頃、標高140mの此隅山に城を築いた。元々は「子盗山(こぬすみやま)」であったのが訛って「此隅山(このすみやま)」になったと言われる。此隅山城は長らく山名氏の本拠であったが、永禄12年(1569)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。
山名祐豊(応仁の乱の中心人物・山名宗全の曾孫)は、残存兵力をかき集め、再攻撃に備えるために城に堅固さを求め、天正2年(1574)、此隅山より高い標高321mの有子山山頂に有子山城を築き、本拠を移した。「子盗(此隅)」の名を嫌って「有子」と命名したといわれている。
しかし、天正8年(1880)秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、祐豊は自刃し、その子氏政は因幡に逃亡し、但馬国・山名氏は滅亡した。
有子山城は、その後しばらくは織田系の城主の管理となり、城代の時代が続いたが、天正13年(1585)から前野長康、文禄4年(1595)から小出吉政が城主を務めた。
江戸時代に入り、慶長9年(1604)吉政に代って領した子吉英により有子山山麓に近世城郭・出石城が築かれ、有子山城は廃城となった。
『「現地説明板」「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」等参照』
【一口話】
山名氏は、当初は城下町を挟んで反対側の「比隅山(このすみやま)」に城を構えていたが、「比隅山」は昔は「子盗山」と書いたそうである。最近はその表記が前者に統一されているそうだが、その比隅山城にて子が出来ず、反対側の山に移って、子ができ「有子山(こありやま、ありこやま)」と呼ばれるようになったとか。
現況・登城記・感想等
有子山城へは9年ぶりの登城です。前回(2009年)は、三の丸から本丸にかけて強烈な藪で本丸まで辿り着けなかったので、いつかリベンジをと思っていましたが、やっと9年ぶりに登城することができました。
前回は、夏の登城だったので、雪が積もる前の11月にと思いやって来ましたが、随分整備されており、今ではいつでも大丈夫なようでした。
出石城址脇から一直線に登る岩盤の強烈な坂道は相変わらずきついですが、整備が行き届き、心なしか以前よりも多くの階段が設けられ歩きやすくなったような気がします。
有子山城は山頂に本丸を置き、そこから西方へ塁段に第二曲輪・第三曲輪・・・第六曲輪が設けられています。
有子山城跡には多くの見どころがありますが、その一つが、これら曲輪の良好に残る石垣でしょう。また、第三曲輪から本丸にかけて南面に残る一部崩れかけている石垣も見応えがあり、まさに「滅びの美」です。
一方、石垣に目を奪われがちですが、本丸と千畳敷を断ち切る巨大堀切も見応え満点です。これぞ中世山城の醍醐味といえるでしょう。
そして、勿論、本丸から見下ろす出石の町並みと、ゆったりと流れる円山川、背後を取り巻く山々の眺望は、まさに絶景で、その向こうに日本海が見えるような気さえしてきます(*^_^*)。
(2015/11/11登城して)
ギャラリー
有子山城と出石城縄張図(出石城前の説明板より)
有子山城は山頂に本丸を置き、そこから西方へ塁段に第二曲輪・第三曲輪・・・第六曲輪が設けられています。
山麓の出石城址の前から見上げる有子山城址
有子山城は、近世出石城の背後の山の上に築かれています。
【登城記】
さあ登城
有子山城へは、近世出石城の東側の石段を登って行きます。
登城口
近世出石城の最高所にある稲荷曲輪の東脇が登山口です。
登城道
登山口から登り始めると、いきなりゴツゴツした岩の尾根道へ出ます。この尾根には、縄張図を見ると段曲輪が築かれていたようで、尾根の両側は崖状に削られているのでしょう、尾根の幅は4~5mほどです。尾根の斜度は30度前後でしょうが、体感的には60度(苦笑)。
堀切と土橋
登山口から13~14分ほどひたすら登って来ると堀切が現れ、土橋が設けられています。
さらなる急坂道
土橋を渡ると、さらに急勾配の坂道になります。一緒に登った増っさんもバテ気味です。
腰曲輪
登山口から登ること22~23分ほどで、2段からなる腰曲輪へ出ます。縄張図によると、実際には、その上にも塁段になった腰曲輪があるようですが・・・。
井戸曲輪
上の段の腰曲輪から右折し、帯曲輪のような道を歩いて行くと井戸曲輪跡へ出ます。写真左上が井戸跡ですが、ほとんど崩れています。曲輪の右下には5段ほどの石垣が見えますが、これが往時のものかどうかは分かりません。
腰曲輪
井戸曲輪から、さらに歩いて行くと、右下にかなり広い腰曲輪が・・・。縄張図によると、この腰曲輪の向こう側も4段ほどの段曲輪になっているようです。
九十九折れの登城道
腰曲輪の左手には本丸へ続く登城道があります。本丸まで240mとなっていますが、大した坂ではないので、ここからは楽勝です。
第六曲輪石垣
2~3分ほど九十九折れの登城道を登って来ると、第六曲輪の石垣が現れます。曲輪の左下を進みます。
第六曲輪と第五曲輪の石垣
第四曲輪の切岸
第四曲輪の切岸には石垣がありません。元々、無かったのか、崩れ落ちたのか分かりませんが、この切岸はかなり高いので、元々築かれなかったのかもしれません。手前の平場は第5曲輪ですが、周囲に低い土塁が確認できました。
第三曲輪石垣
第三曲輪周囲の石垣は実に良好に残っています。ここから左へ向かうと第二曲輪を経由して本丸、右へ曲がると第三曲輪から本丸にかけての石垣下を通り千畳敷へ出ます。写真左上に旗が見えますが、そこが本丸です。
第二曲輪石垣
本丸へ向かうと第二曲輪の石垣が。二の丸上へは、結構急な坂道を登って行きます。
第二曲輪への虎口
第二曲輪への虎口は、小さいながらも枡形虎口になっています。
本丸石垣
さすがに本丸石垣は見事なもので、右手には石段も良好に残っています。
本丸石垣北側側面
本丸の北側は断崖絶壁で、こんなところによく石垣を築いたものです。
本丸上
本丸の広さは東西40m強、南北25mほどあります。
本丸土塁
本丸南辺には土塁が設けられています。
本丸から大堀切越しに千畳敷を
本丸の東側には巨大堀切が掘られ、その東側の千畳敷との間を断ち切っています。
本丸からの眺望
本丸から見下ろす出石の町並みと、ゆったりと流れる円山川、背後を取り巻く山々の眺望は、まさに絶景で、その向こうに日本海が見えるような気さえしてきます(*^_^*)。
第三曲輪から本丸の南面の石垣
一旦、第三曲輪の下へ下りて、三の丸・二の丸・本丸の南面石垣にそって千畳敷へ向かいます。
本丸から第三曲輪にかけての南面石垣
本丸から第三曲輪にかけて南面に残る石垣は、本丸側面は多くが崩れていますが、見応え満点で、まさに「滅びの美」です。
巨大堀切
石垣に目を奪われがちですが、本丸と千畳敷を断ち切る巨大堀切も見応え満点です。これぞ山城の醍醐味といえるでしょう。堀底に立つ増っさんと見比べてもらえば、この凄さが分かって戴けると思います。
千畳敷切岸
千畳敷へは南面に設けられた坂道を登って行きます。
千畳敷
こんな山の上に驚くほどの広い平坦地が。長さ125m、幅45mもあり、兵の集合や物資の貯蔵場と考えられています。
千畳敷の石垣と石塁
千畳敷は、幾つかの区画に分かれていたようで、低い石垣や石塁などが確認できます。
巨大堀切越しに本丸を
千畳敷より本丸の方が、かなり高いです。尤も、今では堀底から本丸まで道が築かれており登って行くことも出来ますがネ。