五層五階であったものを三層三階で再建された天守閣
楠木正成が甥の和田高家を代官とし築城、後に小出秀政が大改修し天守が
別名
千亀利城(ちぎりじょう)
所在地
大阪府岸和田市岸城町9-1
形状
平城
現状・遺構等
現状:岸和田城公園、市街地
遺構等:復興天守閣・櫓・二重櫓・櫓門・多聞・土塀は旧城とは無縁の外容、本丸と二の丸の石塁、内堀、外堀の一部が現存
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/01/16
歴史等
諸説あるが、建武元年(1334)、建武中興によって、功労者楠木正成は和泉国守護に任じられ、当地を一族和田新兵衛に分け与えた。
新兵衛は当地の海岸沿いに城塞を築いたことから、「岸和田」の呼称が生まれたという。
南北朝から戦国時代には概ね阿波の細川氏の支配下にあり、阿波から淡路を経て当地という海路が主要ルートとなっていた。
細川氏はやがて家臣三好長慶に実権を奪われるが、三好氏も畿内への足掛かりとしての重要性は分かっており、永禄3年(1560)、
長慶の弟義賢は城を修築し、阿波勢を迎え入れている。岸和田城は、南から畿内を威圧する拠点であった。
織豊期に入ると役目は変わり、天正11年(1583)秀吉は、岸和田城に腹心中村一氏を配置し、和泉衆を与力にし、雑賀・
根来衆の北上に備えた。翌12年(1584)秀吉が小牧・長久手合戦で出陣した隙をつき、紀伊から雑賀・根来衆が侵入してきた。一氏は、
岸和田城を固め、奮戦して守り抜いた。これを受けて、翌13年(1585)、秀吉は紀伊制圧に乗り出し、根来・雑賀を平定し、
伯父小出秀政を城主とした。秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれた。
元和5年(1619)秀政の孫吉英が、但馬出石へ移り、
代って(松井)松平康重が丹波篠山から入封し、
寛永17年(1640)子の康映のとき播磨山崎へ移った。
あとへ岡部宣勝が攝津高槻から入城した。宣勝は時の将軍家光の信任が厚く、徳川御三家の一つ紀伊徳川家の抑えと解されている。
宣勝は城地を拡充整備した。以後、その岡部氏が13代230年在城し、明治を迎えた。
有名な「だんじり祭」は元禄16年(1703)、岡部氏3代藩主長泰が城内三の丸に伏見稲荷神社を勧請し、
五穀豊穣を祈願する稲荷祭りに領民の参拝を許したことが起源といわれる。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中島繁雄著(文春新書刊)」参照』
現況・登城記・感想等
岸城町のバス停から城までの区間は、今でも往時の家老や上級武士の屋敷町を想わせるような雰囲気であった。屋敷町を通り過ぎると、
目の前に岸和田城が現れた。城(水堀)の周りを廻って入城しようとしたら、何と今日は休館日とのことで本丸には入れなかった。休館日でも、
天守閣はともかく本丸くらいは入れてもいいのでは?
城は昭和29年に建造された3層3階の天守で、見た目には結構きれいではあるが、文政10年(1827)
に焼失した天守閣は5層5階であったことが絵図で確認されているそうである。
せっかく再建するなら、本丸・二の丸の石垣や内堀が現存しているわけだし、少しでも本来のものに近い築城をして欲しかったが、
予算不足だったのかな?
(2006/01/16訪城して)
ギャラリー
本丸への入口(大手門?)
二の丸多聞櫓
何とトイレになっていた。