僅かに残る土塁、手前に城址碑
平維茂の子孫平貞冬が、越前朝倉から来て築城
読み方
もちぶくじょう
所在地
三重県四日市市茂福町里の内
【アクセス】
近鉄名古屋線「近鉄富田駅」から南南西へ約1km、近鉄名古屋線「霞ヶ浦駅」から北北東へ約1kmの線路脇東側。
東名阪自動車道「四日市東インター」で下り、県道64号で伊勢湾の方へ東進し、近鉄の線路を高架で越えてすぐの信号を左折します。左折後、2本目の路地を左折すると、近鉄の踏切手前の左手に大きな城址碑があります。この付近が城跡です。
形状
平城
現状・遺構
【現状】 住宅地
【遺構等】 土壇(土塁)、看板、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/05/04
2017/02/28
歴史等
平維茂の子孫平貞冬が、越前朝倉よりこの地へ来て、茂福城を築き朝倉を名乗った。保々西城の朝倉備前守と同族である。
永禄10年(1567)にいたり、最後の城主茂福掃部輔盈豊は、織田信長の武将滝川一益のため長島城へ誘い出され殺された。城主を失った茂福城兵は滝川勢と激しく戦ったが、攻め落とされたという。
滝川氏は目代として山口氏を置き治めさせた。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
茂福城址は、近鉄名古屋線の線路脇に土壇が残り、そこに墓が建てられているだけです。
この場所は、城の主郭の北西角に当たるそうで、この土壇は、その土塁の一部とのことです。
尚、土壇の西側(線路側)に「茂福城跡」と書かれた大きな看板が立っています。
(2007/05/04登城して)
ギャラリー
土壇
この土壇は、城の主郭の北西角に当たるそうで、その土塁の一部とのことです。
土壇上に墓
土壇の上に「満児喜圓大居士」と彫られた墓があります。説明板は、それについて触れてなくて、誰の墓か分かりませんが、多分、何代目かの城主の墓でしょう。
大きな看板
土壇の西側(線路側)に大きな看板が立っています。