伊勢 長島城(桑名市長島町)

長島城の移築大手門(蓮生寺山門)

一向宗徒が織田信長と壮絶な戦いを繰り返した城

所在地

三重県桑名市長島町西外面2188長島中部小学校
長島中部小学校:TEL0594-42-0038

形状

平城

現状・遺構

【現状】長島中部小学校他
【遺構等】移築城門(蓮生寺山門)、説明板
蓮生寺:桑名市長島町叉木77-1、TEL0594-42-0266

満足度

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訪城日

2008/05/05

歴史等

長島城は、寛元3年(1245)藤原道家がこの血に初めて築城し、次いで文明年間(1482)伊勢安濃郡長野の伊藤重晴が再建した。
元亀元年(1570)、浄土真宗本願寺派の願証寺証意が伊藤氏を討って城を奪取し、反織田信長の旗を掲げて一向宗徒の拠点とした。
元亀2年(1571)と天正元年(1573)、信長は長島城を攻め、降伏を許さず皆殺しの焼討作戦をとった。
戦後、城は滝川一益に与えられ、そのあと、天野・原・福島の諸氏が城主となり、菅沼定盛が入封し、荒廃した城を修築した。
その後、正保年間(1644~47)松平定政のとき、近世城郭として大改修した。
元禄15年(1702)増山正弥(まさみつ)が入部し、城を整備し、以後増山氏が歴封し、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで8代175年間に及んだ。
『「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

私は高校時代まで長島から近い四日市に住んでいた。中学一年の時の1959年に、「伊勢湾台風」が木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川) に囲まれた輪中の低い地形にある「長島」は水没し大きな被害をもたらしたことは、今でも生々しい記憶として残っている。
長島城は、そんな低い地形にあり、周囲を水(泥)が囲む要害の地にあったのである。
大多数の方にとっては、長島城と言えば、まず思い浮かべるのは、「一向宗徒による織田信長との壮絶な戦いであり、信長による大虐殺」 であろうが、そのような地形にあったため、信長でさえも容易に落すことが出来なかった。
今では、往時の遺構等がほとんど残らない長島城跡の昔の姿を思い起こすよすがは、伊勢湾台風でも大災害にあった「海抜0m地帯」という一点であろう。
現在、長島城跡には長島中部小学校が建ち、校門の右側10mほどの植え込みの中に説明板が設置され、校門の正面奥に江戸期からあったという大松が聳えているだけである。この大松は、この地に長島城があった江戸期から本丸南西隅にあったもので推定樹齢三百数十年とのことである。
一方、建築物としては、小学校の北東200mほどのところにある蓮生寺に江戸期の長島城の大手門(高麗門)が移築されて残っている。
また、国道一号線の反対側(東側)には願証寺(長島町叉木)があり、境内に「一向一揆殉職の碑」 が建っている。尤も、願証寺は、当時の場所から多少東南に移築されたものではあるが、周りは一面の水田になっており、 その非常に低い地形に往時の壮絶な戦いを思い起こされる。
(2008/05/05登城して)

*尚、私が通っていた高校(四日市高校)にも、長島から通っていた人が一人だけ居た。長島は三重県であるが、愛知県との県境にあるため、彼の言葉は尾張弁(名古屋弁)と伊勢弁(四日市弁?) が混じっていた(苦笑)。美濃の言葉も混じっていたのかもしれない。まさに尾張・伊勢・美濃の境界にある地だと思ったものである。ちなみに、 揖斐川の南にある桑名の人は、完全な伊勢弁である。

ギャラリー

長島城周辺図(現地説明板より)
正保年間(1645~1648)の長島城周辺図とされるが、説明板によると詳細は分からないという。
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長島中部小学校校門脇に設置された説明板
長島中部小学校校門の右側10mほどにある植え込みの中に、長島城周辺図付きの説明板が設置されている。
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大松
校門の正面奥にに立つこの大松は、樹高は約15m、胸高円周2.8mある。この地に長島城があった江戸期から本丸南西隅にあったもので、推定樹齢三百数十年とのことである。
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移築大手門
明治9年(1876)に蓮生寺が長島城大手門の払い下げを受け、同寺の山門として移築した。
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水田の中に孤立する願証寺(長島町叉木、TEL0594-42-1309)
当時の場所から多少東南に移築されたものではあるが、周りは一面の水田になっており、その非常に低い地形に往時の壮絶な戦いを思い起こしてくれるような気がする。
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願証寺
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願証寺本堂と境内に建つ長島一向一揆殉職の碑
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