2016年に建てられた模擬冠木門(左奥は城址碑)
藤原秀郷(俵藤太)の末裔、四日市赤堀三家のひとつ田原氏の城
所在地
三重県四日市市浜田町堀ノ内、鵜森公園
【アクセス】 近鉄四日市駅の南西約100mにある鵜の森公園が城跡。駐車場はありません。
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 鵜の森公園
【遺構等】 土塁、堀跡?、模擬冠木門、石碑2基、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/08/27
2017/02/27
歴史等
文明2年(1470)に田原美作守忠秀がこの地に城を築き浜田家と称した。忠秀は当時の赤堀城主・田原肥前守景信の次男である。
その祖先は藤原鎌足であり、9代の裔俵藤太秀郷の11世の孫に豊前守景綱があり信濃に移り佐野小次郎と称した。景綱より8世の孫・肥前守田原孫太郎景信は応永年代(1394~1427)に上野国赤堀より伊勢の栗原に移り、地名を赤堀と改め城を築いた。景信は、その長子・景宗を羽津城に、次男・忠秀を浜田に三男を赤堀城に置いた。
忠秀は東海道を城東に移し、東西に大道を通して市街を構成し、市場をひらいて今日の四日市の発展の基礎をつくった。
浜田家は忠秀から紀伊守藤綱、遠江守元綱と3代106年間続いたが、天正3年(1575)織田信長の伊勢侵攻により、滝川一益の大軍に対し、百余騎にて大手門を開いて押し出し必死の戦いを挑んだが、元綱は負傷し、城兵討たれる者多く、元綱は子息・重綱を脱出させた後、城に火をかけて切腹して果てた。天正3年(1575)6月6日のことで、ここに浜田城の歴史を閉じた。
昭和51年2月16日 四日市市教育委員会撰 『現地石碑より』
現況・登城記・感想等
近鉄四日市駅の南南西約100mにある鵜の森公園が城跡です。
公園の北東部が微高地となり鵜の森神社と田原稲荷神社があり、その周囲を土塁が取り囲んでいますが、主郭でしょうか。
鳥居の南北両側に石碑が立っています。南側の石碑は高さ3mほどある立派なものですが、北側の石碑は風雨に長い年月さらされていたためでしょう、全く読むことができませんがすぐ脇に碑文の原文と現代語訳の説明板が立っています。
また、南側の石碑脇には、平成28年(2016)に模擬冠木門が建てられました。
主郭部(神社)の南側には堀跡のようなのがあり、東部分が池になっています。往時は、主郭周囲を水堀が囲んでいたのかもしれません。
尚、当神社には、浜田城主の田原忠秀の遠祖藤原秀郷(俵藤太)の愛用の兜と云われる「十六間四方白星兜」があり、10月の神社の例祭の際に一般公開されるそうです。
(2017/02/27訪れて)
ギャラリー
浜田城跡に建つ鵜の森神社と田原稲荷神社
鵜の森公園の北東部が微高地となり鵜の森神社と田原稲荷神社がありますが、ここが主郭でしょうか。或いは、小さな単郭の城で、これが全てなのかもしれませんね。「田原」の名は、浜田城主田原忠秀からとったものでしょう。
尚、 当神社には、浜田城主の田原忠秀の遠祖藤原秀郷(俵藤太)の愛用の兜と云われる「十六間四方白星兜(国指定重要文化財)」があり、10月の神社の例祭の際に一般公開されるそうです。
神社周囲を取り囲む土塁
鵜の森神社と田原稲荷神社の周囲には土塁が残っています。
模擬冠木門
南側の石碑脇には、平成28年(2016)に模擬冠木門が建てられました。
鳥居南側の城址碑
鳥居南側の石碑は高さ3mほどある立派なものです。
鳥居北側の石碑
北側の石碑は風雨に長い年月さらされていたためでしょう、全く読むことができませんがすぐ脇に碑文の原文と現代語訳の説明板が立っています。
尚、碑文は石碑裏側(神社内側)に刻まれていますが、いずれにしてもほとんど読解不可能です。
堀跡?
主郭部(神社)の南側には堀跡のような地形があります。
堀跡のような地形の東部分は池になっています。往時は、主郭周囲を水堀が囲んでいたのかもしれません。