本丸内から土塁を、右上に見えるのは復元された清明櫓
宇都宮氏500年の居城、関東八名城の一つ、釣天井事件でも有名
所在地
栃木県宇都宮市本丸町、旭一丁目地内
形状
平城
現状・遺構
現状:宇都宮城址公園、市街地
遺構等:現存土塁、復元土塁、復元水堀、復元清明櫓、復元富士見櫓、石碑、説明板等々
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/01/15
歴史等
平安時代の康平6年(1063)、宇都宮氏の祖藤原宗円が前九年の役に祈祷僧として下野まで同行し、
陸奥平定祈願成就の功によって宇都宮社務職に任命され、同時に論功行賞により下野守護となり居館を築いたのが宇都宮城の始まりとされる。
南北朝期、宇都宮氏の勢力進展に伴い堅固な土塁や空堀が構築され、やがて戦国城郭に発展し、関東八名城の一つと謳われた。
慶長2年(1597)、豊臣秀吉の命により改易となり、城代浅野長政ののち、幕藩体制のもと外様蒲生秀行、城代大河内秀綱を経て、
以後譜代大名の奥平、本多、松平、阿部、戸田の各氏が入れ替わり封じられ、安永3年(1774)、以後戸田氏が明治廃藩まで続いた。
元和5年(1619)に入封した本多正純は城の大改修を行い、三の丸までであった城域を2倍以上に拡張し、
奥州街道をつけかえて新たに日光街道を開いたが、「宇都宮釣天井事件」により改易となった。
慶応4年(1868)4月、戊辰戦争で炎上、破却されて廃城となった。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』
【釣天井事件】
元和8年(1622)、家康の7回忌にあたり将軍秀忠の日光社参が行われることになったが、
秀忠は宿泊所に決まっていた宇都宮城に寄ることなく江戸城に帰ってしまった。
このあと、正純は突然出羽由利へ配流となった。
将軍を迎える為に行った城郭修理の無届け部分が武家諸法度に抵触するというのが配流の理由であったが、不可解な除封処分から、有名な
「宇都宮城釣天井事件」の俗説が生まれ、その後、講談・芝居での題材となり、全国的に広まった。
正純には台所領として5万5千石が与えられることになったが、これを固辞したため、佐竹義宣にお預けとなり、のちに出羽横手へ移された。
秀忠が、家康時代以来の敏腕正純を嫌ったための排除であった。
現況・登城記・感想等
宇都宮城は、当初は、妙な復元をしたというイメージがあり、あまり気が乗らなかったが、近くの城めぐりのついでに寄った。
宇都宮城は、幕末の「戊辰戦争」時、大鳥圭介や新撰組の土方歳三らの率いる幕府軍との激しい攻防の舞台となり、
建造物のほとんどが焼失してしまった。 その後、城内に県庁が置かれるが、明治23年には城地は払い下げとなり城の破壊が進んでいった。
そして次に、「第二次世界大戦の空襲」により壊滅。そして更には、残されていた土塁や堀などの遺構も、「都市開発」の波に飲み込まれ、
昭和40年頃には、本丸の一部以外は破壊・消滅してしまった。
ボランティアの方の話によると、復元費用は30数億円掛かったそうである。それらは、市民の税金と寄附から支出されたものだそうである。
従って、出来る限り史実に忠実に復元するだけでなく、少しでも不満が出ないように、
市民に還元できるものをというコンセプトがあったとのことである。そこで、この復元宇都宮城は、防災拠点と位置づけられた為、
土塁内部はコンクリート造りで、中は倉庫となり備蓄品等が収納されているそうで、シャッタードア等、見た目にはあまり良いとは言えない。
「確かに、城マニアは兎も角、大抵の方にとっては、『あくまで史実に忠実に復元』なんて、どうでもいいことでしょうしね。」
「それを考えると、『よくぞここまで復元してくれました』という気持ちにもなりますね。」
「この復元によって多くの方が訪れてくるようでもあるし、これはこれで良しとしなければ・・・。」「土地も、多くはビル等が立ち並び、
たまたま市の公園として残っていた本丸西側半分しか活用出来ず、中途半端ではあるが止むを得ないですね。」などと考えながら(同情しながら?
)廻った。
尚、唯一の現存遺構として松ケ峰門の土塁が一部だけ残っている。
(2008/01/15登城して)
ギャラリー
城址公園案内図(現地説明板より)
本多正純の拡張後の宇都宮城の図(ものしり館展示より)
元和5年(1619)に入封した本多正純は城の大改修を行い、三の丸までであった城域を2倍以上に拡張し、
奥州街道をつけかえて新たに日光街道を開いた。赤丸は本丸部分。
おほり橋
コンクリート造りの橋もそうだが、この登城口もう少し何とかならなかったのだろうか? これじゃあ、
まるでマラソンランナーが入って行く競技場のゲートみたいだ。
二の丸広場から
手前が清明櫓、一番奥に富士見櫓。土塁は、高さ10~11.5m、幅20~40m、延長約230m。堀は、
水深1~2m、幅11~26m、面積約3,900㎡。
本丸内(手前にエレベーター塔、奥に清明櫓、内側は本丸広場)
復元費用は30数億円掛かり、それらは、市民の税金と寄附から支出された。従って、
出来る限り史実に忠実に復元するだけでなく、少しでも不満が出ないように、市民に還元できるものをというコンセプトがあった。
そこで宇都宮城は、防災拠点と位置づけられた為、土塁内部はコンクリート造りで、中は倉庫となり備蓄品等が収納されているそうである。
シャッタードア等、見た目にはあまり良いとは言えないが止むを得ないのかもネ!?
㊧清明櫓、 ㊨富士見櫓
両櫓とも、本瓦葺きの木造2階で、壁は土壁白漆喰塗り、高さは約10mであるが、大きさ・
延床面積は清明櫓は約5.9m×6.9m、60.2㎡で、富士見櫓は5.9m×7.9m、69.9㎡と富士見櫓の方がやや大きい。
清明櫓は富士見櫓よりもやや小さいが、土塁が他の部分よりも高く、天守閣の役割をしていたのではと云われている。富士見櫓は、その名の通り、
高い建物がなかった江戸時代には、遠く富士山が望めたと考えられる。
土塀と富士見櫓
土塀は高さ約2.6m、延長160mである。どうにも後ろのビルが邪魔だなあ!
僅かに残る松ケ峰門の土塁跡
城址公園の西500mほどにある一条中学校の北にあり、今ではこれが唯一の現存遺構であろう。