羽前 山形城(山形市)

伊達と奥州覇権を競った最上氏の本拠

別名

霞ケ城、最上城、大山城

所在地

山形県山形市霞城町

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 霞ケ城公園
【遺構等】 石垣、土塁、堀、復元本丸大手橋、復元二の丸東大手門一ノ門、二ノ門と付け櫓、舛形、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2001/05/01
2008/11/28

歴史等

南北朝の頃、奥州は南朝方の拠点となっていた。そこで足利尊氏は、一族の斯波家兼を奥州探題に任命して、北朝方の指揮をとらせようとした。家兼は大崎地方(宮城県)に住み、大崎氏と称し、子孫が探題職を世襲した。そして、家兼は次子の兼頼を最上(山形県)に入部させた。
兼頼は、入部の翌年、一説では古くからあった城を改修したともいうが、城を築いて本拠とし、強大な権威と政治力を駆使して所期の目的を達した。以来、兼頼の子孫は最上氏を称して、山形城を居城とした。
戦国時代に入ると、最上氏一族は分裂していたが、12代義光(よしあき)は山形城主になるや、一族の討伐にとりかかり、それが治まると外部に手を伸ばし、遂には最上川流域の統治に成功した。そして出羽地方(山形県)は、最上・村山・庄内の最上氏と米沢の伊達氏に2分された。両者は一触即発の状態で、小天地での戦いに明け暮れていた。
そうこうしている中、中央では豊臣秀吉による全国統一が進み、小田原征伐が始まっていた。徳川家康から参陣の忠告を受け参陣したが、政宗よりも遅れ、問責されたが、家康のとりなしで危うく本領は安堵された。また、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には東軍につき、合戦後には24万石から57万石の大大名に増封された。実際にはおよそ100万石あったようである。
しかし義光の死後、家督を相続した家親がわずか3年後に急死し、世継ぎ争いから元和8年(1622)領地は没収となり、近江に1万石だけ与えられた。
以後、幕府は領地を山形、新庄、庄内と分け、さらに複雑に天領を組み込ませ、山形には鳥居忠政が24万石で入封し、この後、保科氏・結城・松平・奥平・堀田・結城・松平・堀田・大給・秋元氏とめまぐるしく城主が代り、弘化2年(1845)水野忠精が入封し明治を迎えた。
最後の水野氏はわずか5万石で、57万石の居城として築かれた大城を持て余して空地ばかりだったという。
現在の山形城は最上義光が修築拡張した城を、鳥居忠政が最上氏改易後にさらに修築した遺構である。また、天守は築かれなかったようである。
『参考:「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」』

現況・登城記・感想等

正面からの水堀と復元門が、いかにも江戸時代の平城といった感じで実に美しい。中にはいると二の丸が非常に広く、復元門や櫓は階段状になっており登ることが出来、城外が見られる。二の丸からから見る復元門や櫓も素晴らしい。その奥の方の本丸跡の遺構を復元工事中のようであった。
最上義光というと、どうも悪人というイメージが強く、あまり関心はなかったが、山形城はなかなか立派なものですっかり気に入った。尚、本丸一文字門の石垣の復元が完了したそうで、本丸大手橋の復元工事も始まる予定とのことである。完了したら、また是非見に行きたいものである。
(2001/05/01訪城後)

ほぼ7年半ぶりの登城だ。
本丸一文字門の石垣と大手橋が復元されていたが、本丸内部はまだまだのようだった。それでも、本丸石垣とその石垣周囲の堀、そして大手橋の光景は素晴らしく、ついつい何枚も写真を撮ってしまった。
「7年半掛けても、まだこれだけか?」という想いと、「これだけ大規模な工事だ!財政的にも大変だろうな」という感想が入り混じる。
本丸には御殿も復元するようだ。全て、忠実に復元する計画ようで、資料を求める案内板が立っていた。完成後が本当に楽しみだ。
ところで、現在、野球場や体育館などのスポーツ施設や博物館・明治建築等々をすっぽり収めている霞城公園は、東西約500m、南北約600mの方形の城域は最上義光が大構築した城のうちの二の丸だそうだ。この二の丸を囲む三の丸は、山形駅の東500mほどまで含み、全城域は東西1.6km、南北1.5kmという広大な規模であったというから驚きだ。
今回も、歌懸稲荷神社裏に残るという土塁跡を見逃したのは残念だった。
(2008/11/28登城して)

ギャラリー

霞城公園案内図
野球場や体育館などのスポーツ施設や博物館・明治建築等々をすっぽり収めている霞城公園は、東西約500m、南北約600mの方形の城域は最上義光が大構築した城のうちの二の丸だそうだ。この二の丸を囲む三の丸は、山形駅の東500mほどまで含み、全城域は東西1.6km、南北1.5kmという広大な規模であったというから驚きだ。
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【本丸】
(本丸一文字門付近の復元石垣と本丸大手橋)
着々と?工事が進み、石垣の大部分と大手橋が架けられていた。建物がなくても見応え十分だ。

(本丸石垣復元中) ~前回登城の2001/5/1に撮影~
前回の登城時は、この本丸一文字門付近の石垣だけであった。
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本丸一文字門(二ノ門)の石垣
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本丸内の様子(2008/11/28現在)
本丸内部は、まだまだこれからのようであるが、本丸御殿も復元するようで、完成後が楽しみだ。
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【二の丸】
二の丸東大手門(一ノ門)
今回は、あいにくの雨の中の登城であったが、この東大手門辺りの光景は、なかなかのものだ。
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二の丸東大手門両サイドの付け櫓(南側) 
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二の丸東大手門両サイドの付け櫓(北側)
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二の丸東大手門前の水堀(二の丸堀)
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二の丸東大手門一ノ門(高麗門)を枡形内から 
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二の丸東大手門内枡形と二ノ門 
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二の丸東大手門を二の丸内から 
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最上義光像
山形城は、最上家が改易後、城主の交替があまりにも目まぐるしかったためか、地元では、山形城と言えば、まず最上義光、次にはその祖である斯波兼頼の名をあげるようで、二の丸跡には、義光の馬上の像と兼頼のレリーフが立っている。
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斯波兼頼のレリーフ
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旧済生館本館
本館は、初代県令三島通庸(鹿児島県人)によって県立病院として建てられた3層4階の洋風建築である。鹿児島県出身の原祐之が大工棟梁となり、山形の宮大工が、明治11年(1878)に竣工、わずか7ヶ月で完成させたという。当時の太政大臣惨状実美がこの病院を「済生館」と命名した。昭和41年(1966)に国指定重要文化財となり、昭和44年に現在地(二の丸跡)に解体復元された。山形市郷土館として、医学資料を中心とした郷土資料が展示されている。(現地説明板より)
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【山形の板蕎麦】
山形といえば、「板蕎麦」が有名だ。以前、かつての同僚Sさんお薦めの店を忘れたが、こちらも有名な店「庄司屋」へ。欲張って、天麩羅付きにしたら、量が多くて・・・。食べ過ぎだ~!当日の夜は、これまた蔵王牛のすき焼き食べ放題で、さらに食べ過ぎ、そして案の定飲み過ぎで、夜中から強烈な腹痛と嘔吐、さらには下痢・・・。参った~!!
㊧蕎麦屋「庄司屋」、㊨板蕎麦、天麩羅付き

旅の友N氏とT氏
今回(2008/11/28)は、かつての同僚Nさん・Tさんと「奥の細道旅行」と銘打っての旅行だ。

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コメント

斎藤義雄(2012/08/02)

はじめまして、山形の霞城に40年ぶりで今年対面しました。
復元された大手門や櫓に驚嘆しました。
40年前に山形にいるころに三の丸の土塁を訪ね 霞城の規模の
大きさを知りました。
私も機会をみて城跡を訪ねていますが 貴方様には足元にも
及びません。
このHPの最初のであいは 岩城守山城でした。
妻の実家が守山藩時代に庄屋を務めた関係で 代官から賜った
苗字、帯刀、裃御免の書状を見て守山城の遺構を尋ねましたが
幕末の守山藩は陣屋に代官を置き 遺構の守山城と無関係でした。 長くなりましたが私の郷里は城輪の柵(酒田市)の近傍
です。
遺構を眺め 往時を瞑想するととても心落ち着きます。
ありがとうございました。

タクジロー(2012/08/04)

斎藤義雄さま
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
また、過大なお褒めの言葉を戴きありがとうございます。
貴兄の絵画のサイトも見せて戴きましたが、素晴らしいですね。
絵が上手い人が、以前から羨ましくてしょうがない自分です。
野幌で絵画展をされたとか。札幌在住時代が懐かしいです。
また、機会がありましたら、是非、貴兄の絵画展へ訪れたいものです。

北近江人(2020/06/12)

思い出深いお城の一つです。
春、桜が満開🌸🌸🌸の日に訪れました。これまでの人生で各地の満開の桜を見てきましたが、あれほど素晴らしかったのは他に記憶にありませんね。素晴らしかったと言うよりも凄かった!傍らで何人かがゴザを敷いて花見をしていたのを覚えています。
いくつもあった建物で特に印象に残ったのは何と言っても山形市郷土館(旧済生館本館)。明治初期竣工にしては実に斬新だなと思いました。

タクジロー(2020/06/14)

北近江人さま
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
山形城へ登城したのは、10年以上前になりますが、復元中でした。
その後、どうなっているか、桜の季節に再登城してみたいものです。
桜の季節に登城してないのが残念です。(初めての登城は、20年前の5月1日だったのですが、多分、もう終わっていたのでしょうね。)
今後とも、宜しくお願い致します。


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