蒲生氏郷の築城、江戸期は紀州徳川家の領地となり城代が置かれた
別名
四五百城・鶴城
所在地
三重県松阪市殿町
形状
平山城
現状・遺構
現況:松阪公園
遺構等:天守台・本丸・二の丸・三の丸の石垣が完存、三の丸に御城番屋敷(同心長屋)2棟が現存、石碑、説明板
満足度(10点満点)
7点
訪城日
1996/04/07
歴史等
松坂城を築いたのは、戦国の麒麟児とも称される青年武将蒲生氏郷である。
氏郷は少年時代に織田信長のもとで人質となったが、伊勢平定の合戦で働きを認められて、信長の部将として頭角を現していった。
天正12年(1584)、松ケ島城
(松阪市松ケ島町)12万3千石でに封じられた氏郷は、松ケ島城が手狭なことから、
四五百(よいお)の森と呼ばれた標高30mほどの小山に目を付け、ここに新たに新城を築城した。また、吉祥の木である「松」と、
秀吉の居城大坂城から「坂」の一字を拝領して「松坂城」と命名した。松坂城は、全体を堀で囲み、中心部を階段状にして、最高所に天守を置き、
これを囲むように、本丸、きたい丸を置き、この南側に二の丸、隠居丸を置いて、それぞれを堅固な高石垣で囲んでいる。その石垣は、
野面積みの石垣の堅固さでは日本の城郭の中でも5指に入ると云われている。
また、城下町の建設にも力を注ぎ、松ヶ島の町民を強制的に移住させるとともに近江日野の商人も松坂に移し、楽市楽座の制度を定め、
城下の繁栄をはかった。
築城間もない天正18年(1590)、氏郷は小田原の陣での戦功によって、92万石の太守となって会津黒川城
(のちの会津若松城)に移った。しかし、これは氏郷の才を恐れた豊臣秀吉が天下を望めない辺境の地に追いやったものとされる。
翌年、服部一忠が3万5千石で入ったが、一忠は「豊臣秀次事件」に連座してその罪を秀吉に問われ、文禄4年(1595)切腹自害した。同年、
古田重勝が3万4千石で近江日野(滋賀県日野町)から入ったが、重勝の跡を継いだ弟の重治は、元和5年(1619)石見浜田(島根県浜田市)
に転封となった。
以後は紀州藩徳川家の領地となったが、
城は破壊されることなく、城代が置かれ陣屋として明治まで存続された。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「蒲生氏郷・佐竹申伍著(PHP文庫刊)」参照』
現況・登城記・感想等
何といっても蒲生氏郷築城の城である。絶対に来るべしと前々から思っていたが、やっと登城することが出来た。
松坂城址の一番の特徴は石垣であろう。特別大きな石が使われているわけではないが、総石垣で構成された城郭は素晴らしい。
氏郷びいきの私には、氏郷の築城ということで、なお更である。
桜は満開を過ぎてちょっと葉桜の風情であった。「お城の桜で花見」は定番とは云いながら、やたらと提灯が多いのには興醒めであった。まあ、
花見は日本人の楽しい年中行事であるし、しょうがないか。
松阪は武家屋敷も往時の風情を残している。ここもなかなか良かった。それに、松坂と云えば「牛肉」です。松阪では、
オリンピックではないが金銀銅とあり、「1に和田金、2に牛銀、3が忘れた」と云うそうである。
和田金はやたらとでかくて綺麗になってしまい観光客向けかなあ。満席で入れなかった。それでは「銀」ということで、牛銀へ。すき焼き・
網焼き、どちらも味もボリュームもGOOD GOOD DELICIOUS!!。 次回の登城もあるでしょう。
(1996/04/07登城して)
ギャラリー
石垣群
武家屋敷