近江 玄蕃尾城(余呉町、敦賀市)

賤ケ岳合戦の時に柴田勝家が本陣とした城

別名

内中尾山(うちなかおやま)城

所在地

滋賀県伊香郡余呉町柳ケ瀬字北尾624-1-636、字打谷773、字坂手819・820
福井県敦賀市刀根60号字外ケ谷5-1、刀根69号字小唐子6

【行き方】
木之本ICを降り、国道365号線を12.5kmほど北上するとY字になるので、 右へと進み県道140号線に入るとすぐに北陸自動車道の下をくぐるトンネル(柳ケ瀬隊道)へと出る。
このトンネル(隊道)は、明治17年完成の当時日本最長(1,352m)のトンネルで、今も使用中では2番目に古いそうで、 普通車がやっと一台だけしか通過できないほど狭くて(おまけに暗い)片側通行のため信号が付いているので要注意。
トンネルを出ると、すぐに右へ曲がる細い道を右折し、そのまま細い林道(対向車が来たら擦れ違う場所は少ない) を2kmほど山間を進むと登城口に突き当たり、駐車スペースも充分ある。

形状

山城(陣城) 標高460m

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、櫓台、土塁、虎口、馬出、空堀、土橋、標柱、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2008/11/11

歴史等

柴田勝家軍と羽柴秀吉軍による賤ケ岳合戦では、わが国の合戦史上、他に類を見ないほど多くの陣城が築かれ、 その多くが単なる野営の陣ではなく、かなり本格的な城砦であった。
天正11年(1583)2月28日、勝家軍が行動を開始し、沿道を除雪しながら木ノ芽峠を越えた。勝家本隊は3月9日越前北ノ庄城を発し、 12日北近江に進出し、本陣を置いたのが玄蕃尾城である。
玄蕃尾城は、北国街道柳ケ瀬宿北方、柳ケ瀬山の山頂に位置し、城の南方300mの地点は「刀根越え」と呼ばれ、 北国街道から敦賀へ抜ける重要なルートであった。
この時の勝家方の各将の布陣は、行市山(ぎょういちやま)に佐久間盛政、林谷山に不破勝光、柏谷山に徳山秀現、池原山に浅見道西、 別所山に前田利家・ 利長父子(但し、前田父子は4月2日に茂山に移動)、山寺山に原房親、椽谷山(とつたにやま)に拝郷五左衛門・金森長近をそれぞれ配した。 各将は、これらの山に陣城を構築し、それらを結ぶ尾根筋の木を伐り払い、連絡路を確保し、どの陣城が攻撃されても、 すぐさま応援に駆けつけられるようにした。
さらに長期戦の構えに入ると、これらの陣城以外の要所にも、竹ケ鼻砦・打谷砦・雁ケ谷砦・椿井砦・城ノ坂砦・城山砦・ 集福寺口砦などいたるところに陣城を築き、今市以外の北国街道は完全に勝家軍によって固められた。
しかし、勝家軍はこれら強固な陣に拠って戦うことは一度もなく、余呉湖畔で敗北する結果となった。

尚、これらの城砦群は、秀吉方の城砦群と較べると、小規模で単純な構造のものが多く、玄蕃尾城だけが突出した水準の高い縄張である。
「歴史群像シリーズ・賤ケ岳の戦い(学研刊)」の中で、中井均氏は、「玄蕃尾城の地は、北国街道を見下ろす絶好の位置にあり、 賤ケ岳合戦以前から重要なルートであった。例えば、天正元年(1573)、朝倉義景が敦賀へ逃げる際に、織田信長と刀根山で戦った。 このような立地に加え、北近江の拠点長浜城が清洲会議の結果、 勝家の養子勝豊のものとなった。この結果、勝家は栃ノ木峠を切り開き改修している。玄蕃尾城は、この街道整備とともに、 北ノ庄と長浜を結ぶルートの中継点として天正10年(1582)6月以降すでに築城されていたものと考えられる。」と述べている。
さらに「玄蕃尾城以外の陣城が小規模で単純な構造であったのは、防御用の城ではなく、部隊の駐屯地として構築されたものであろう。つまり、 勝家軍の主目的は北国街道を突破し、美濃・伊勢の反秀吉軍と合流し、さらに背後から毛利氏や高野山と秀吉軍を挟撃することにあった」 とも付け加えている。
(高所に布陣した勝家は一気に北国街道沿いに南下し、長浜城に迫るつもりではなかったか?)

私も、今回登城してみて、同様に思った。また、玄蕃尾城についても、これだけ本格的な城は、 わずかな期間で築くことは出来ないだろうと思った。
『文及び図:歴史群像シリーズ・賤ケ岳の戦い(学研刊)他より』

現況・登城記・感想等

玄蕃尾(げんばお)城は、城郭の規模も大きく、郭・土塁・虎口・馬出・空堀・櫓台等々の遺構も良好に残っており、 しかもそれら全てが規模も大きい上に実に美しい。
石垣の城の「直線的で鋭い美」に対して、この土の城址には「曲線的な優美さ」を感じる。
今まで見た中で、土の城の最高傑作と思っていた山中城にも匹敵する素晴らしさだ。
しかも、人里離れた本当に深い山奥にも関わらず、城址はよく整備されて気持ちよく散策できる上、さらには、今回の登城は、 紅葉の季節の真っ只中で、さらに美しさが映え最高!!
(2008/11/11登城して)

【余談】
玄蕃尾城址は、本当に山奥にある。今回の登城では、下山時に「真っ黒な熊の糞らしきもの」を3つと「引っ掻き傷のある標柱」を見つけた。 登城時には、気がつかなかったので、ひょっとしたら熊とニアミスだったのかもと思うとゾッとした(汗)!!
(2008/11/11登城して)

ギャラリー

玄蕃尾城縄張図(現地説明板より)

登城口からの眺め
玄蕃尾城は本当に山奥にある。トンネルからでさえ本当に細い林道を2km近く山の中を車で登ってくる。 ここに登山記帳ノートがあったので、見てみると、一週間に一人ほど登城しているようだ。周りは深閑としていて気持はいいし、 眺めも素晴らしいが、すぐそばに熊が居ても不思議ではない雰囲気だ。写真左側の道を、4つ付いた鈴を思いっきり鳴らしながら登城だ~!

久々坂峠(刀根越え)
登城口から5分ほどで、久々坂峠(刀根越え)へと出る。ここから左へ登ると玄蕃尾城、 右へ登って行くと行市山砦である。尤も、行市山砦へは1時間以上はゆうに掛かるであろうし、道もあるかどうか?
ここは、賤ケ岳合戦以前から重要なルートで、天正元年(1573)、朝倉義景が敦賀へ逃げる際に、織田信長と戦った地でもあるようだ。

 

久々坂峠から10分ほど登ると頂部へと出、尾根道をしばらく進むと城址入口へと着く。 ここの紅葉は実に綺麗で、しばらく見とれていた。写真奥が大手虎口。

説明板
上写真の右の方には縄張図付きの説明板が設置されている。この左奥の方へ行くと大手虎口へと出る。

南虎口・大手虎口(専守防衛)と大手郭(虎口郭) 手前の空堀
左の標柱の立っているところが南虎口・ 大手虎口でそこを右へ入って行くと大手郭(虎口郭)。中央から右にかけて空堀が切られている。

大手郭・虎口郭(専守防衛)
実は、ここで下山時に真っ黒な「熊のウンチらしきもの」を3つと、 この標柱に引っ掻き傷が付いていることに気が付いたのです。おっかない、おっかない!!

大手郭(専守防衛)と虎口郭(出撃拠点)間の空堀

東虎口(攻撃用大手口)&土塁・空堀
右の標柱のところが東虎口。左上の土塁が主郭南虎口前の馬出。右側の空堀の右下には腰郭がある。 うねった土塁の曲線が実に綺麗だった。

虎口郭(出撃拠点)
東虎口を入ると、この虎口郭(出撃拠点)へと出る。右土塁は馬出、写真奥の方の虎口を入ると主郭。

主郭南の馬出(主郭虎口から撮影)
手前の両側には空堀がある。

主郭南西部の空堀
空堀は多くの郭周囲や郭間に見られるが、主郭周囲の空堀は規模が大きく、上幅7~8m、深さ4mほどあり、 内側の土塁上からは6mほどありそうだった。

主郭南側虎口

主郭
主郭周囲は土塁と空堀で囲まれ、北東部には櫓台(写真左上)もあり、礎石も残っていた。また、主郭には南・ 北・東に虎口がある。写真手前は主郭北虎口。

主郭東虎口と空堀・土橋(張出郭から撮影)

主郭北の馬出(主郭北虎口から撮影)
主郭南と北の虎口には外馬出があり、どちらもしっかりと土塁が残っている。

搦手郭(兵站基地)と馬出の空堀
写真奥の土塁に囲まれた郭が搦手郭で兵站基地だったようだ。右手前は馬出周囲の空堀。

搦手虎口
搦手郭の北東部には搦手虎口がある。この辺りはかなり埋っているようだった。

㊧搦手郭東側の空堀、㊨搦手郭北側の空堀
 

張出郭・見張台(主郭東虎口から撮影)
主郭東虎口を出たところが張出郭(見張台)である。さすが見張台だけあって、ここから東方面(写真左側) は真下に北陸自動車道が見える。

主郭南東部の腰郭
何も言うことはないですね。紅葉に見とれるばかりでした。

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