西の丸の北条流の「障子堀」
秀吉進軍に備え大修築した後北条氏の山城、多くの畝堀・障子堀が美しい
所在地
静岡県三島市山中新田
形状
山城(標高:580m)
現状・遺構等
現況:公園・山林
遺構等:掘(畝堀・障子掘等)、土塁、天守台、櫓跡、曲輪、土橋、復元架橋、石碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和9年1月22日、(追加指定)昭和54年3月20日
指定理由:中世城郭として保存がよく、後北条流の縄張りが顕著に見られる
面積:11万7,856.91㎡
資料館;三島市郷土館に出土遺物を展示
満足度
★★★★★
訪城日
1992/06/25-26
2004/12/24
2008/03/02
歴史等
後北条氏が箱根連山の内外に配置した城砦群(箱根10城と呼ばれる)のひとつである。
城がいつ築かれたかを知る明確な資料は残されていない。多分、箱根の天険を西方への防備と意識し始めた永禄年間(1558~70)
のことであろう。
大掛かりな普請が行われたのは天正15年(1587)11月からである。天下統一途上の豊臣秀吉との対決が近いことを想定した北条氏政・
氏直父子が箱根の押さえとして大改修を施したのである。
天正18年(1590)3月秀吉の小田原征伐が始まった。山中城の守備にあたったのは、後北条氏の重臣・松田康長で、足柄城-
山中城-韮山城を結ぶ線で秀吉の大軍を防げると考えていた。
他にも山中城には玉縄城主・
北条氏勝他小田原城の旗本衆も入り、
その数4,000~5,000人と伝えられている。攻める秀吉方の総大将は羽柴秀次で、秀次自身15,000の軍勢を率い、中村一氏・
田中吉政・山内一豊・堀尾吉晴ら錚々たるメンバーであり、毛利家文書の「山中城取巻人数書」によれば、総勢67,800人とも云われている。
人数の差が示すように、戦いは2時間程の攻防であっけなく終わり、城は落ちてしまった。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)参照』
現況・登城記・感想等
城跡は現在国道1号線で真っ二つに分かれているが、まずは、西側の城跡へ歩いていくと、三の丸堀の所に出る。その横を進んでいくと、
西の丸の畝堀に出る。その畝堀は実に綺麗に整備されている。そこをさらに登っていくと、やはり綺麗に整備された西櫓の畝堀に出る。
さらに登って行くと、あの西の丸の障子堀が現れる。その障子堀は、残念ながら表現力の乏しい私には「実に美しい。実に素晴らしい」
としか言いようがない。また、ここからの展望も、遠くに愛鷹山等の山並みがよく見え素晴らしい。そこから西の丸を囲む帯曲輪、さらに二の丸・
本丸の帯曲輪と進んでいくと、右側には本丸の堀があり、左側にある北の丸と右側の本丸との間に木製の架け橋が架かっていた。北の丸は1,
920㎡あるそうで随分広く、周りを土塁が囲んでいる。
架け橋を渡って、本丸に渡ったすぐのところに、天守台跡があるが、それほど広いものではない。本丸も1,740㎡と結構広く、
周りは深い堀と土塁に囲まれている。二の丸との間の堀も畝堀になっている。
二の丸がこの城では最も広く、綺麗な曲輪であろう。そして二の丸と元西櫓の間にも架け橋が復元されている。
このあたりが西の丸の障子堀と共にこの城跡の一番の見所であろう。
そこから西の丸の方に戻った。西の丸には物見台があり、そこから先程見た障子堀が見える。
国道1号線の反対側には、手前から馬場曲輪・岱崎曲輪・すりばち曲輪と繋がってあり、本当に綺麗に整備復元されている。また、
岱崎曲輪とすりばち曲輪の側面にある長く伸びた畝堀が特に美しい。
豊臣軍との最初の衝突は岱崎曲輪から始まったそうである。後北条流築城の特徴に、畝堀・障子堀が上げられるのだろうが、この城は、
特に綺麗に整備され、「堀跡や土塁他の城跡が実に美しい」の一語につきる。
何度訪ねても楽しませてくれ、飽きない。北条家には、防御に優れた城造りが出来るだけでなく、美術的センスのある人が多かったのかなあ?
(1992/06/25・26、2004/12/24登城して)
4度目の登城である。今日は、会社のOB仲間O氏とH氏との3人である。
山中城は、何度訪れても楽しませてくれる。城址にそれほど関心のないO氏もH氏も気に入ってくれたようだ。
今度は、芝生の緑が鮮やかでツツジの花が咲いている5月頃に再登城したいものだ。
(2008/03/02登城して)
ギャラリー
西の丸畝堀
本丸の堀と架橋(左側が北の丸、右側が本丸)
北の丸跡
天守(櫓)台
本丸跡(左奥が天守台跡)
兵糧庫・弾薬庫等の曲輪(本丸下)
二の丸跡
二の丸虎口と元西櫓間の堀に架かる「架橋」
西の丸(奥の土塁は物見台)
岱崎出丸とすりばち曲輪(手前が岱崎出丸)
すりばち曲輪