駿河 足柄城(小山町、南足柄市)

一ノ郭にたつ城址碑と富士山

古東海道の峠の城、雄大な富士の姿が正面に

所在地

静岡県駿東郡小山町竹之下
神奈川県南足柄市矢倉沢


【足柄峠(城址)の住所】

足柄峠(城)は、神奈川県南足柄市と静岡県駿東郡小山町の境界にある。
毎年9月の第二日曜日に、神奈川県南足柄市と静岡県駿東郡小山町の共済で行われる「足利峠笛まつり」において、相模の国(南足柄市) と駿河の国(小山町)が『領地争奪綱引き合戦』を行い、勝者は次回の笛まつり開催の日まで。この足柄峠広場(一の郭) を領地とするそうである。
というわけで、今日(2007/02/04)は駿河之国小山領となっている。

形状

山城(標高759m)

現状・遺構

現状:城址公園、山林
遺構等:曲輪跡、土塁、空堀、井戸、池、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/02/04

歴史等

足柄峠道の歴史は古く、万葉の時代から、東海道が通じ交通の要衝であった。昌泰2年(899)、足柄坂に出没する強盗団・ 僦馬の党を取り締まるために、太政官は峠に関が設けた。関の設置された場所や規模、関の停廃の時期などはわかっていない。また、 「源平盛衰記」や鎌倉時代の「明日香井和歌集」などから、源平の動乱時代に足柄峠に臨時の関が設けられ、その残骸が残っていたことがわかる。
鎌倉時代になると、東海道は箱根峠経由となり、足柄峠は、主要ルートから外れてしまったが、国境を分かつ要衝としての重要性は薄れなかった。
足柄城は、創築者・年代は不明であるが、平安末期頃から戦略上の要地として、何度か軍事的な施設が設けられた形跡がある。
足柄峠に本格的な城が築かれたのは、戦国時代のことと伝えられている。相模の後北条氏は、駿河の今川氏の来襲に備え、 足柄峠に堅固な城を築いた。
城郭としては、後北条氏の属城であり、山中城 (静岡県)や御坂城(山梨県)と同様、街道(峠)そのものを城に取り込んでいる。峠道を通ろうとすれば、 いやおうなく足柄城の中を突っ切らなくてはならない。このような峠をフルに使った城造りは北条支城の一つのパターンであろう。
そして、永禄12年(1569)には、北条氏が足柄城他12城を1万8千の兵を配分し、守らせている。また、天正15年(1587) には豊臣秀吉の東征に備え大規模な改修が行われた。
しかし、天正18年(1590)3月、秀吉による北条攻めが開始され、山中城が落城すると足柄城の城兵も開城・ 退却し、その後廃城となった。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

足柄城址へは、いつか行きたいとは思っていた。しかし、足柄城址の大きな魅力の一つは何といっても富士山の景色である。 そういうわけで、なかなか天候や日程が合わず、なかなか登城できなかった。昨日の天気予報によると、今日は絶好の天気ということで、 朝早く家を出て、やっと登城することが出来た。
今日は、神奈川県側から足柄峠(足柄城)へ向かった。足柄峠のすぐ手前に、「足柄の関」というのがあり、昭和60年の黒沢明監督の映画「乱」 の撮影に使われた城門のセットが移築されていた。
そして、その先50mほどのところが足柄峠であるが、車道の両側が郭(一の郭と南郭)になっている。即ち、 車道は往時の峠道であると同時に堀切である。街道(峠)そのものを城に取り込み、峠道を通ろうとすれば、 いやおうなく城の中を突っ切らなくてはならないという北条支城の典型的パターンの一つである。 
次に、一の郭に上がって目の前に現れた景色は期待以上のもので、まさに絶景であった。正面に富士山、そのやや左に愛鷹山、 そして後ろを振り返ると金時山がくっきりと見える。そして、非常に広い富士のすそ野には御殿場の町並みが・・・。やっと、 この景色に出会えることが出来た。感激ものである。
城跡は、遊歩道が整備されており、のんびりと気持ちよく歩いて廻れた。そして、一の郭から五の郭の全郭から富士山が望める。また、 一の郭から五の郭への、それぞれの郭の間には見事な堀切が残っており嬉しくなってくる。
しかし、遺構もなかなかのものではあったが、足柄城の主役はやっぱり景色かも。今日の素晴らしい天気に感謝して一時間半ほどで次の目的地・ 深沢城に・・・
(2007/02/04登城して)

ギャラリー

「足柄の関」
足柄峠のすぐ手前にあり、 昭和60年の黒沢明監督の映画「乱」の撮影に使われた城門のセットが移築されている。

「一の郭と南郭の間の堀切」
車道の両側が郭(一の郭と南郭)になっている。即ち、車道は往時の峠道であると同時に堀切である。街道(峠)そのものを城に取り込み、 峠道を通ろうとすれば、いやおうなく城の中を突っ切らなくてはならないという北条支城の典型的パターンの一つである。木橋が復元されている。

「足柄城址の石碑」
石碑横の階段を上がって、すぐのところが一の郭

「足柄の山笛の調べの碑」  (奥のコブのような山は金時山)
後三年の役に出陣する新羅三郎義光は、兄八幡太郎義家の苦戦している後三年の役に参戦する途中、足柄峠において笙の笛の師・豊原時元の子・ 時秋に笙の秘曲を伝授したと言う。


【郭】
一の郭から五の郭の全郭から富士山が望める
「一の郭」
一の郭に上がって目の前に現れた景色は期待以上のもので、 まさに絶景であった。また、一の郭は、山城としては相当な広さであるが、削平地が妙にデコボコなのが気になった。

「二の郭」

二の郭からの眺望①          ~クリックにて拡大画面に~

二の郭からの眺望② 左の山は愛鷹山 ~クリックにて拡大画面に~

「三の郭」

「四の郭」


【空堀】

一の郭から五の郭への、それぞれの郭の間には見事な堀切が残っている。
「一の郭と二の郭との間の空堀」 奥の郭は二の郭

「二の郭と三の郭の間の空堀}

「四の郭と五の郭の間の空堀」
この空堀が尤も幅が広くて深い。


【一の郭と二の郭との間の空堀を渡る土橋】

【一の郭横にある玉手池】
「底知らずの池」 とか「雨乞いの池」といわれ、底は小田原に通じているとも言われているとか?池の名称は足柄峠の守護神・足柄明神玉手姫から付けられた。 もともと、この池があったのか、足柄城の本丸井戸跡かのいずれかであろう。

【四の郭に残る?井戸】
完全に埋まっており、木組が無ければ絶対気が付かない。

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