七曲りへの入口から城址を望む
北条早雲が築いた堅城も、消え去っていくのか
所在地
神奈川県鎌倉市城廻、植木
形状
山城
現状・遺構等
現状:市街地、清泉女子学院
遺構等:石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/03/21
歴史等
大森藤頼を小田原城から追って、
相模国中央部に進出した北条早雲は、三浦道寸(義同)を相模岡崎城から追い、永正9年(1512)10月鎌倉の北方、
三浦半島の首部にあたる柏尾川の台地上に玉縄城を築城した。当時、新井城
(三浦市)に後退して最後の抵抗を続けていた三浦道寸・義意父子の救援に、江戸城の太田資康が来襲してくる可能性が強く、相模西部、
三浦半島への押さえとして玉縄城の築城は必要であった。
案の定、武蔵の領主上杉朝興が援軍を率いてやってきたのである。早雲は新井城の攻撃兵を一旦引かせると玉縄城に籠もり、
上杉軍の攻撃を撃退した。 上杉の援軍を絶たれた新井城は間もなく落城。
これをもって北条氏は相模平定を成し遂げた。
玉縄城は、早雲自らが縄張したと伝えられる堅城で、大規模な城郭であった。
大永6年(1526)、早雲の次男氏時が初代城主となった。氏時は武名の高い人で、房総の里見義尭が相模に乱入した際、戸部川で迎え討ち、
里見勢と激闘している。
氏時歿後は2代目当主北条氏綱の三男為昌が就任した。近年、従来云われた初代氏時-2代綱成説が崩れて、
2代城主に為昌が就任していたことが確実となった。為昌は幼かったので後見役が必要であり、氏綱の娘婿・福島(北条)綱成を後見役とした。
天文6年(1537)、氏綱が河越城を攻略して武蔵中央部に進出すると、
為昌が河越城主となり、
玉縄城は北条綱成が守った。永禄4年(1561)上杉景虎(謙信)の小田原城攻撃の帰路、
鶴岡八幡宮へ拝賀し管領就任を披露すべく鎌倉へ立ち寄った際に玉縄城は囲まれたが、城主・綱成は不在だったものの、その長子・
氏繁がよく守ったので越後へ引き上げた。
永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めの時は、
藤沢のおんべ山砦(大谷城)を落としたものの玉縄城は素通りしている。
これは上杉謙信でも落とせなかった堅城ぶりを信玄がよく理解していたからだとされる。
綱成の引退後は氏繁が城主となり、天正6年(1578)氏繁が歿するとその子・氏舜が城主となった。従来、
氏繁の死去後は氏勝が玉縄城主になったと考えられていたが、氏舜が玉縄城主であったことが判明した。
氏舜の城主の在位期間は4年ほどと短かった。
最後の6代目城主は氏舜の弟・氏勝がなった。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのとき、
氏勝は玉縄衆を率いて、山中城
(三島市)へ籠城したが、大軍の前にわずか1日で落城し、玉縄城へ逃げ帰り籠城、頑強に抵抗したが、徳川家康の策によって、
氏勝の叔父である大応寺住職・了達を通して説得し、開城となった。
その後、本多正信、水野正忠などが入城したが、元録16年(1703)に廃城となった。
『歴史群像シリーズ⑭真説北条五代(学研刊)参照』
現況・登城記・感想等
玉縄城は、北条早雲が築城し、上杉謙信や武田信玄、また秀吉の小田原攻めの時の本多忠勝でさえも落とせなかった要害城である。
しかし今では、本丸跡には清泉女子学院が建ち、周囲も新興住宅地となり、見る影も無い。「諏訪壇」など、
ところどころに遺構がわずかに残ってはいるようであリ、学校に見学をお願いすれば、出来ないこともないらしいが、それもなあ!!(尤も、
見学は土日、祭日、学校の行事のある日は除くそうである。)
鎌倉市を中心に、国、県、周辺の逗子市・横浜市は、現在「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録を進めているそうである。しかし、いわゆる
「旧鎌倉市街」の保存には熱心だが、外側についてはもうひとつどころか、派手に開発を進めているようである。せめて、
諏訪壇近辺の遺構だけでも大切に保存し、もっと気楽に見学出来るようにして欲しいものである。
(2007/03/21訪ねて)
ギャラリー
七曲への入口
ここから、
七曲りへと登って行く。ここら辺りが、多少は城址の雰囲気が残るか?
案内板
上写真(七曲への入口)
近くにあるマンションの前の小さな公園にある。薄くなってしまっている。
石碑
鎌倉市植木433-6付近のT字路角地の東側斜面の上にある、まるで、
住宅の庭にあるように見えるので見落としやすい。私も、前回見つからずに帰ってしまった。