相模 新井城(三浦市)

断崖絶壁上の城址全景というより半景?

東相模に君臨した名族・三浦氏滅亡の舞台

所在地

神奈川県三浦市三崎町小網代

形状

平山城(海城)

現状・遺構等

現状:山林、東大臨海研究所、油壺マリーナ
遺構等:曲輪、堀切、土塁、説明板

満足度

★☆☆☆☆

歴史等

平安末期から衣笠城を本拠に三浦半島を治めていた三浦一族は、宝治元年(1247)執権北条時頼に滅ぼされた(宝治合戦)が、 一族でありながら、時頼に加勢した佐原氏が三浦半島南部で三浦介を継承し、新井城を築き居城とした。
戦国初期、伊豆韮山城を本拠とする伊勢新九郎 (北条早雲)が小田原城を奪取し、 永正9年(1512)相模の最大勢力・三浦義同の岡崎城を急襲しこれも奪取した。さらに義同は岡崎城から住吉城に逃れ立て籠もるが、 これも陥とされ、最後は新井城、三崎城に篭城した。
義同は要害を頼りに三年間という長きにわたって新井城に籠城を続けるが、最後は兵糧も尽き果て城兵悉くが玉砕した。 この時多くの兵の流した血がこの湾に流れ込み海上が油のようになったところから、油壷の名がおこったと云われる。
新井城は、現在は関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいるが、 面積約128ヘクタールの天険をそのまま利用した自然の要害であった。相模湾に突出したこの小半島は、小網代湾と、油壺湾にはさまれて、 三方がいずれも海で、しかも切り立った断崖であり、陸地に通ずる路は大手の引橋で、 この橋を切って落とせばどこからも攻めこまれないようになっていた。
『現地案内板参照』

訪城日

2002/04/14

感想等

北条早雲が相模侵攻の総仕上げともいうべき、天然の要害「新井城」はどんな所なのかは、鳥瞰図等を見て、 以前から非常に興味を持っていた。
まずは、大手にあたる引橋の所から入城である。やや括れるように両側が崖にはなっているものの、 関東大地震による隆起で当時の様子はあまり分からないが、崖の下に降りて行って見ると、掘切りの感じがよく分かった。 今日は三崎の鮨屋での食事が主目的であり、義父も一緒だったのであまり歩き廻るわけにはいかなかったが、 それでも平面になっている一番先の方まで行くと、城跡の半島の感じがよく分かり、また油壺湾が下の方に良く見えた。また、 遺構のありそうなところは東大臨海研究所の敷地内になっているようで残念ながら立ち入れなかった。ところが後で分かったことであるが、 敷地外にも道寸の墓や空堀なども残っているようである。また、近いうちに来てみようと思う。
(2002/04/14訪城後)

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