本丸御殿
河越夜戦後は後北条氏の拠点に、江戸期は江戸城の出城的存在で重要視
別名
初雁城、霧隠城
所在地
埼玉県川越市郭町
形状
平城
現状・遺構等
現状:初雁公園・市街地
遺構等:本丸御殿の玄関及び大広間の一部、富士見櫓跡、土塁、堀、家老詰所(移築復興)、天神曲輪跡(三芳野天神社)、二の丸、
三の丸跡は学校敷地、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2001/10/20
2003/11/15
歴史等
川越城は、関東管領扇谷上杉持朝が、古河公方に対抗するために、長禄元年(1457)太田道真・道灌父子に命じて、江戸城・
岩槻城と共に築城したものである。
関東は、戦国時代初期には、古河公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏の三勢力がせめぎあっていたが、そこへ小田原の後北条氏が割り込んできた。
そして、大永4年(1524)には扇谷上杉朝興は北条氏綱に居城江戸城を攻め落とされ、
天文6年(1537)には朝興の子朝定が川越城も攻め落とされた。
ここに至って、天文14年(1545)古河公方方、山内・扇谷両上杉氏の三勢力は連合して、8万の大軍で川越城を囲んだ。城を守るのは、
黄八幡で有名な北条綱成以下3千であった。
北条氏康は5千の兵を率いて援軍に駆けつけたが、連合軍のあまりの人数に無血開城を条件に和平を申し入れたが
(和平のふりをしたとも云われる)、北条方をみくびった連合軍は応じなかった。氏康は4月20日夜、城内と密かに通じ、
時を同じくして連合軍に襲い掛かった。数を頼んであなどっていた上に、烏合の衆の連合軍は、数千の戦死者を出して逃げ去り、
扇谷上杉朝定は討死し、扇谷上杉家は断絶した。これで後北条氏の関東での覇権が確立した。(川越夜合戦)
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐にて後北条氏は滅び、関東に徳川家康が入国してきた。家康入国後は、譜代・
親藩大名の居城となった。城域は、近世になってからも逐次拡張されたが、寛永15年(1638)
松平伊豆守信綱が領主となってからは急速に城郭が増築され、江戸防備の要としての役割を果たす城となった。江戸時代における城主は酒井・
堀田・松平・柳沢・秋元・松平の諸侯で、太田氏の築城以来420余年を経た明治4年(1871)ついに廃城となり、
建物の大部分は解体撤去された。
現在ある建物は、嘉永元年(1848)松平大和守斉典が造営したもので、大唐破風造りの玄関、大広間そして櫛形塀のみを残すだけであるが、
川越藩が17万石を有した時の建物の主要部分で、埼玉県内唯一の城郭建築の遺構として重要なものであり、現存本丸御殿は、
川越城の他には高知城に残るだけである。
また、城址の東にある三芳野神社は、草創の頃の太田道灌が建てたと云われる。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「現地説明板」参照』
【黄八幡】
北条綱成の父は、今川氏に仕えた福島正成である。甲斐の武田信虎との戦いで父を亡くし、綱成は小田原に移り北条氏綱に仕えた。やがて、
氏綱の娘と結婚し、福島の姓を改め北条を名のった。綱成は武勇をもって知られ、黄色の地に八幡と書かれた旗印を用いたことから、
その軍勢とともに、日頃「黄八幡(きはちまん)」と呼ばれた。
現況・登城記・感想等
私にとっては、川越と言えば「川越夜戦」であるが、当然のことながら、現川越城跡は江戸時代の川越城跡である。
川越は江戸時代重要視された所だけあって、本丸御殿の玄関と大広間が残っているが、なかなかの威容がありさすがのものである。また一方、
天守閣の代わりともいえる富士見櫓跡があるが、ここは今では木の茂った小山でしかない。
川越はなんと言っても小京都と呼ばれるだけあって蔵造りの町並み・喜多院 ・五百羅漢・ 氷川神社・三芳野神社と散歩をするには最高である。
特に、町並みがよく整理されていて、鰻が美味いのと駄菓子屋さんが一杯あって楽しい。また、五百羅漢の顔がそれぞれ特徴があり面白い。
小京都というより小江戸といった方が合っているような気がする。何度来てみても楽しく過ごせるところである。
(2001/10/20・2003/11/15の2度訪問してみて)
ギャラリー
本丸御殿
現存する本丸御殿は、他には高知城(唯一の現存本丸殿舎)と二条城(移築本丸御殿)だけである。
この川越城本丸御殿も玄関と大広間のみが残存である。
富士見櫓跡
当時は天守閣の代わりとなる御三階櫓があったという。
鐘櫓「時の鐘}(明治の再建)
蔵造りの商店街の真ん中にある
鰻の店
「小川菊」
川越はサツマイモ・
駄菓子の他に鰻が名物。中でも「小川菊」の鰻は実に美味いと思う。