僅かに残った池(沼)に架かる八ツ橋、今では公園の象徴に
太田道真・道灌父子による築城、後北条氏との攻防の城
別名
白鶴城
所在地
埼玉県さいたま市岩槻区太田1丁目
形状
平城
現状・遺構等
現状:城址公園、市街地
遺構等:現存門2基、曲輪、土塁、空堀、説明板
満足度
★★☆☆☆
歴史等
岩槻城は室町時代の長禄元年(1457)扇谷上杉持豊が室町幕府に反旗を翻した古河公方(足利成氏)に備えるため、
重臣の太田道灌とその父道真に築かせた城である。文明18年(1486)に道灌は、讒言を信じた主君扇谷上杉定正に暗殺されてしまう。
その後、太田氏は、道灌の実子資康が江戸城に、
養子太田資家が岩槻城に入り、後北条氏の北上に備えた。しかし、大永4年(1524)、江戸城は後北条氏の手に落ち、
翌年、岩槻城も陥落した。その後享禄3年(1530)9月、資家の子・資頼により岩槻城の奪回に成功している。このように、
その後も資家の子孫たちは、岩槻城を拠点にして、後北条氏に抵抗していく。
太田氏四代資正の代の天文15年(1546)「川越夜戦」で扇谷上杉氏が滅びると、資正は山内上杉憲政に忠節を尽くした。そして、
上杉憲政が北条氏に追われて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の下に落ち延びると、資正は謙信とともに北条氏と戦った。
しかし、永禄7年(1564)資正も北条氏康に惨敗し、また謀略により岩槻城を失った。
そしてまた、後北条氏も天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で滅び、岩槻城も落城した。
同年、徳川家康が関東に移封されると、高力清長が2万石で岩槻城主となった。徳川幕府の時代となると、岩槻城は江戸城の北の守りとして重要視され、
高力氏の後、朽木氏・新庄氏の城番時代が続き、元和6年(1520)、青山氏が入封し、以後、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、
永井氏と老中幕閣や譜代大名がめまぐるしく交替したが、宝暦6年(1756)大岡忠光が上総勝浦より2万3千石で入封。以後、
岩槻城は大岡氏8代の居城として明治維新を迎えた。
『参考:「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本の城郭大事典(新人物往来社刊)」』
訪城日
2006/08/14
現況・登城記・感想等
森の中の城址公園は市民の憩いの森あるいは広場として実にきれいに整備されている。
残念ながら、本丸など大部分は住宅地など市街地化して跡形もないが、公園内に僅かに残る池(沼)
や城の北と東側を流れる元荒川の満々と水を湛えた様子が、往時の湿地に浮かぶ「浮城」の面影を偲ばせてくれる。
また、鍛冶曲輪・新曲輪間の空堀は今でもかなり深く、馬出しや横矢掛りなどを伴っており、複雑でなかなかのものであり、
この城址の一番の見どころかな。
(2006/08/14登城して)
ギャラリー
岩槻城絵図(まさに、沼地と元荒川に囲まれた浮城であったのがよく分かる)
黒門(移築現存長屋門)
岩槻城の城門と伝えられる門で、城内の位置は明らかではないが、木材が黒く塗られていることから「黒門」
の名で親しまれている。門扉の両側に小部屋を附属した長屋門形式の門で、幅約13m、奥行き3.7mである。屋根は寄棟造で瓦葺きである。
移築現存裏門
岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。薬医門形式で、幅約3m、奥行き2mであり、
屋根は切妻造で瓦葺きである。本柱のホゾに帰された墨書銘により、江戸時代の後期の明和7年(1770)修造され、文政6年(1823)
に修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重である。廃藩置県による廃城後、
民間に払い下げられていたが、岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980)、この地に移築された。
八ツ橋
僅かに残った池(沼)に架かった八ツ橋。今では城址公園の象徴になっている。
鍛冶曲輪・新曲輪間の空堀①
かなりの深さがあり、しかも長く続いている。発掘調査の結果、
往時はさらに3mほど深かったことが確認された。
鍛冶曲輪・新曲輪間の空堀(畝堀)②(丸太と丸太の間)
発掘調査の結果、堀底まで3mほど埋まり、堀底に堀障子(畝堀)が見つかった。これは、
後北条氏特有の築城技術であり、戦国時代の終わりに後北条氏によって造られたことが判明した。
鍛冶曲輪・新曲輪間の空堀③
馬出しや横矢掛りを伴っており、複雑でなかなかのものであり、この城址の一番の見どころと思う