大阪夏の陣の功で大名に取り立てられた建部氏の陣屋
別名
窪山城
所在地
兵庫県姫路市林田町林田
(姫路市役所林田支社:林田町林田13)の北側の神社周辺
形状
陣屋(平山城)
現状・遺構
現状:建部神社
遺構等:曲輪、石垣、堀、藩校、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2007/11/14
歴史等
室町時代の後期、谷沢国氏がこの丘に築城し、窪山城と称したのが始まりであるが、永正13年(1516)赤松政村に背いて落城した。
藩祖建部政長は慶長15年(1610)八歳で亡父の跡を継ぎ、元和元年(1615)の大阪夏の陣では徳川方に属し、
摂津国尼崎城を固守した功により、政長は同年7月、700石から摂津国川辺郡(兵庫県)西成郡(大阪府)において一挙に1万石に加増され、
大名に取り立てられた。元和3年(1617)9月、播磨国揖東郡林田に1万石で入封し、窪山城の跡を聖岡と改め、ここに陣屋を構え、
灌漑用に鴨池をつくるなど農業に尽力した。以来藩主の交代なく廃藩置県まで10代250年余り建部氏が治めた。
政長のあと、政明・政宇と続き、3代「政宇」は伏見奉行にもなり、京都の大火で禁裏が炎上したときは造営にも当たり正徳4年(1714)
には寺社奉行にも昇進している。
7代「政賢」は学問を好み、寛政6年(1794)林田藩校敬業館を創設し、家臣の子弟の教育につとめた。
9代「政和」は幕府の大番頭として京都二条城守護の重責につき、敬業館の振興のために河野鉄兜を迎えた。
歴代藩主の墓は、京都紫野の大徳寺内芳春院にまとめてまつられている。
建部家は外様大名であったが、姫路藩・岡山藩との縁故もあり、郡北に雄視していた。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」より』
現況・登城記・感想等
林田陣屋は、姫路市とはいえ市街地からはかなり離れた北西の方に位置し、たつの市との境あたりにある。
陣屋は小高い丘の上にあり、今は建部神社となり、南面に石垣が残っていた。神社の上の曲輪跡は梅林となっている。神社の裏手には、川が流れ、
その内側に浅くなっているが堀跡が残っていた。
夕方遅くなってしまい、薄暗い中での登城になってしまい写真がきれいに撮れなかったのは残念だった。
(2007/11/14登城して)
ギャラリー
曲輪跡は梅林に
南面の石垣
陣屋北側の堀跡