大井城の中心の王城跡・王城公園
東信濃の名門大井氏宗家代々の城
別名
岩村田館
所在地
長野県佐久市大字岩村田字古城、王城公園ほか
形状
平山城(台城)
現状・遺構等
現状:王城公園、市街地、農地他
遺構等:曲輪、堀切、説明板、標柱
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/10/14
歴史等
大井城は鎌倉・室町時代(13~15世紀)を通じて佐久郡の東部を中心に繁栄した大井氏宗家が城館としていた。
文明16年(1484)、大井城は村上氏の攻撃により岩村田市街とともに焼亡、大井氏宗家は滅亡した。その後、
城は支族によって再興されたが、天文年間以後は武田氏の支配下に、
そして武田氏滅亡後は徳川家康の武将依田信蕃の支配下に置かれたが廃城となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
大井城は堀切によって3区分され、中央を王城、南側を黒岩城、北を石並城といい、合わせて大井城と呼ばれるそうである。
王城跡は公園になり、遺構等は見られないようであったが、公園北東隅に見事な欅の巨木がそびえていた。また、南側には堀切(現在は道路)
を挟んで黒岩城が見える。石並城方面である北側は急崖になっており、眼下には田園が拡がり、城跡は全く分からなかった。
東側も急崖になっており、要害の地であるのが分かる。
城跡はほとんど市街に埋ってしまい、あまり見るべきものはないようであったが、
駐車させてもらった城址近くの龍雲寺の総門と山門は見事なものであった。龍雲寺は大井宗家の菩提寺として鎌倉時代に創建されたものが、
戦火により荒れ果て、現在地に移ったものとのことである。そしてその後、武田信玄が中興開基となり興隆をはかったものとのことである。
(2007/10/14登城して)
ギャラリー
大井城の図
大井城は東は湯川の断崖、西は南北に走る田切によって形成された台地を利用し、幅は100m前後、
長さ700mにおよぶ長方形をしている。城域は堀切によって3区分され、中央を王城、南側を黒岩城、北を石並城といい、
合わせて大井城と呼ばれる。
王城公園への登り口
王城公園
明瞭な遺構らしきものはない。手前の井戸跡のようなものは?説明は全くなかった。
欅の巨木
公園北東隅に見事な欅の巨木がそびえて、大井城のシンボルになっている。
王城から南側の黒岩城を望む
王城から北側(石並城方面)を望む
石並城方面である北側は急崖になっており、眼下には田園が拡がり、城跡は??
王城から東側を望む
東側も湯川の断崖を利用した要害になっているのがわかる。この写真は欅の巨木下から撮ったもの。
王城・黒岩城間の堀切
説明板にあるように、堀切によって区切られている。今は、それを利用して道路が走っている。
龍雲寺の総門と山門
城跡はほとんど市街に埋ってしまい、あまり見るべきものはないようであったが、
駐車させてもらった城址近くの龍雲寺の総門と山門は見事なものであった。龍雲寺は大井宗家の菩提寺として鎌倉時代に創建されたものが、
戦火により荒れ果て、現在地に移ったものとのことである。そしてその後、武田信玄が中興開基となり興隆をはかったものとのことである。