築山から全景を
織田信長次男信雄直系織田氏の城
別名
小幡城
所在地
群馬県甘楽郡甘楽町小幡
形状
平城(陣屋)
現状・遺構等
現状:史跡(楽山園)
遺構等:石垣、土塁、空堀、井戸、庭園、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/10/14
歴史等
天正18年1590)、徳川家康の関東入部に際して奥平信昌が上野国小幡3万石へ封じられ、小幡陣屋を居所として立藩した。
関ヶ原合戦の翌年の慶長6年(1601)信昌は美濃国加納10万石へと移封となった。そのあとへ奏者番水野忠清が1万石で入封した。
忠清は元和2年(1616)1万石加増されて父忠重の旧領三河国刈谷2万石へ移封となった。
そのあとへ与力同心頭永井直勝が1万7千石で入封したが、翌3年(1617)常陸国笠間3万2千石へ移封した。
そのあとへ織田信雄の4男信良が2万石で入封した。但し、水野氏・永井氏が小幡に居所を置いたという事実はなく、元和2年(1616)
以前に信良が小幡に入封したとの記事が「寛政重修諸家譜」にある。
藩主織田氏は織田信長直系の孫という名門の血筋によって、小大名ながら国持・城持大名格に遇せられた。
織田氏は初め福島村に居たが、寛永19年(1642)、信良を継いだ信昌が小幡村に陣屋を築いて移住した。
織田氏は8代約150年間統治に当ったが、*明和事件によって、明和4年
(1767)出羽国高畑に移封された。
代って松平(奥平)氏が藩主となり、4代約100年間続いて明治維新に至った。松平氏は親藩で、第3代忠恵は嘉永元年(1848)
城主格を与えられたので、小幡陣屋は小幡城とも呼ばれた。
*明和4年(1767)、
勤皇思想を鼓吹する山県大弐らを謀反人として処刑した明和事件に家臣吉田玄蕃が関わったことから藩主信邦は蟄居処分、
あとを継いだ信浮は出羽高畑へ移された。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
小幡の城下町は武家屋敷や小路の石垣等が、よくその跡をとどめ往時の雰囲気を醸し出している。
藩邸跡を平成14年から23年までの10年間かけて保存整備中とのことで、その庭園・楽山園の整備が6割がた完成していた。
熊倉山や紅葉山を借景として、池の周りに築山や茶屋を配した回遊式庭園は見事なものである。
(2007/10/14登城して)
ギャラリー
小幡陣屋の絵図(現地説明板より)
~クリックにて拡大画面に~
陣屋は大手門を境に雄川と雄川堰に囲まれる東西約600m、南北約760m、周囲約2900m、
面積約34haに及ぶ地域に、藩邸を中心に60余りの藩役所・武家屋敷と2つの神社を構え、その各々に雄川堰の用水を分配していた。
大手門跡
大手門は四脚門であったといい、八脚門に次いで格式が高かった。
織田信長直系の孫という名門の血筋だったことからこのような門を建てたものと思われる。奥の建物は甘楽町歴史民俗資料館。
大手門の礎石
大手門傍の雄川堰の用水
中小路
大手門から藩邸までの700mの間の道路で、織田氏によって造られた。両側に往時のままに石垣があるが、
当時としては珍しい広い道路である。
武家屋敷(中小路)
左側手前は高橋家、右奥には山田家。高橋家は庭園も含め見学出来るようであったが、まだ早朝7:
00ということで遠慮した。
山田家の石垣
喰違い郭(山田家)
戦の防衛上のために造られたとみられる。また、
下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れたとも云われているとのことである。
【藩邸】
藩邸絵図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
(平成21~23年度の整備完了予定図)
整備中の藩邸前
平成14年から23年までの10年間かけて保存整備するとのことである。
土塁手前に空堀、右奥には井戸が。右側には15間長屋が復元される予定。
土塁と空堀
藩邸への虎口
御殿跡(上写真入ってすぐ前)
楽山園
藩邸内の楽山園は江戸時代初期(17世紀前半)に織田氏によって造られたもので、「智者楽水、仁者楽山
(論語)」の語句から名付けたと言われ、京都の桂離宮と同じ特色を持っている。庭園は池泉回遊様式で、その水源は雄川堰である。
広い昆明池を掘り、いろは48の銘石を配し、築山には東屋を建て、熊倉山・紅葉山の借景によって庭園美を盛り上げている。
昆明池内に造られた黄金島