登り始めて15分ほどで現われる巨岩
信玄による大殺戮にあった惨劇の城、残る男女も人身売買された
所在地
長野県佐久市志賀(雲興寺:佐久市志賀3611の裏山)
形状
山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、堀切、土塁
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/10/14
歴史等
武田信玄の佐久侵攻によって佐久の城の大部分は天文12~13年(1543~44)頃までには落ち、信玄に刃向かうのは、
内山城の大井貞清と志賀城の笠原清繁だけとなった。
天文15年(1546)、信玄は内山城に立て籠もる大井貞清を攻め降伏させた。
そして翌16年(1547)7月、信玄は志賀城を包囲し、水の手を押えたが、城内には水の蓄えがあり志賀城はなかなか落ちなかった。
笠原清繁は上野平井城の関東管領・
上杉憲政に援軍を要請した。そして、援軍として駆けつけた上杉憲政と武田軍とが交戦したが武田軍が勝利した。
その際、武田軍は討ち取った上杉軍3000人の首を志賀城の周りの稲杭に掛けてさらしたという。これを見た志賀城の兵士は、
運命がここに極まったと討って出て全滅し、大人の男で生き残ったものは一人もいなかったという。
武田との戦さに敗れた後、志賀城主笠原清繁の夫人は小山田信有に与えられた。また、籠城していた者は生け捕りにされ、
身寄りがある者は2貫匁以上10貫匁で身請けされ、受け人のない女の全ては黒川金山へ送り、鉱石掘り相手の遊び女とされ、
子供は奴として働かされたという。
『武田信玄・新田次郎著(文春文庫刊)他参照』
現況・登城記・感想等
雲興寺の裏山が志賀城である。雲興寺の駐車場を拝借して、寺の右側に廻ると登城口(墓への入口でもある)がある。
少し登ると、早速石垣に出会うが、これは往時のものであろうか?さらに登って行くと、妙に山が荒れている。大木が何本も根こそぎ倒れており、
また道も所々崩れている。どうやら、ここも今年の台風の被害に会ったのであろう。
またそれとは別に、石がそこらじゅうに転がっており、中には石垣らしき重なり合った石も多くある。
登城口から15分ほど登ると、巨大な岩の壁に出会う。その岩の模様が様々で面白い。岩の両側へ道があったようだが、
右側は大木が倒れて道を塞いでおり通過は無理である。
左側へ廻って登って行くと、またまた石垣やそれらしき石に多く出会う。ここから上は、割合い登りやすかった。そして、
段々になった腰曲輪跡が分かる。また、何ヶ所にも石垣が残っているが、石垣の種類が3種類ほどあるのは、
それぞれの築造年代が違うのであろうか?
本曲輪はあまり広くはなく、最後の砦であろうか最も高い部分との間にも堀切がある。
この城は、規模はそれほど大きくはないが、巨岩の壁といい、他もかなりの斜面(崖)になっており、
それなりに難攻不落の城であったのが分かる興味の持てる城跡であった。
ただ、この城は佐久市内に多く残る城跡の中でも、歴史的にも結構有名な城だと思うのだが、
石碑や説明板はおろか標柱さえも無いのはどうしてだろうか?
(2007/10/14登城して)
ギャラリー
㊧雲興寺、 ㊨登城口
雲興寺の裏山
(㊧写真奥上)が志賀城址である。雲興寺の駐車場(㊧写真右側)を拝借して、寺の右側に廻ると登城口(墓への入口でもある)がある。
登り始めてすぐに出会う石垣
登城始めて早々にこの石垣に出会うが、この辺はまだ墓場区域で、
これは往時のものかどうかは?
岩・岩・岩・・・
この山は至る所に岩が転がっている。中には石垣らしき重なり合った石も多くある。
巨岩の壁
登城口から登り始めて15分くらいで、左上に巨岩の壁が見えてくる。
崩れた登城道
巨岩下の道が、今年の夏の台風のためか、大木が根こそぎ倒れていた。㊧写真は巨岩の前を通り巨岩左側を登って行く道。
㊨写真は右側へ登って主郭方面へ行く道か?左の道は何とか通れるが、右への道はとても通れる状態ではなかった。
巨岩の壁・壁・壁(一番右側の巨岩)
巨岩の壁は大きく分けて3つの巨岩からなっていて、岩肌がそれぞれ味わいがある模様をしている。
㊧真ん中の巨岩、
㊨一番左側の巨岩
巨岩の大きさ
私と較べて戴ければ想像が付くと思う。これも少し上に登って撮影している。
巨岩を横から
巨岩の左側の道を登った所から撮ったものであるが、左上奥には石積みがあり、
他にも大きな石がごろごろ転がっていた。往時はもっと大規模な石垣であったのかも?
2の郭へと向かう堀切
主郭下の腰曲輪の虎口石垣?
この石垣は、上と下で石の積み方が違うが、それぞれの築造年代が違うのであろうか?
主郭下南西部の石垣(上写真奥の腰曲輪から撮影)
腰曲輪
典型的な中世の山城の築き方であろう。尾根を利用し、段々に腰曲輪が築かれている。
私は妙にこの段々になった曲輪が好きで、これを見るといつもゴルフ場のティーグラウンドを思い出すのは変??
主郭
主郭には、
石碑や説明板はおろか標柱さえ建っていない。なんとも侘しい限りである。
主郭からの眺望
志賀城は、木々が密集して、
どこからもあまり眺望はよくないが、ここからは木々の間から僅かに・・・。
主郭奥(東)の堀切
堀切の奥が、
この城で最も高い所にあり最後の砦?それにしては狭すぎる。その奥(東)は絶壁になっているが、一部尾根伝いに降りて行けるようだ。
先程の巨岩を右に行くとここに着いたのかなあ?
いずれにしても、今日はこの奥への立ち入りは禁止になっていた。
主郭下北東部の石垣
この下も結構な急崖になっており、志賀城は西側を除くと全てが急崖の要害の城である。