城址遠景
武蔵児玉党の一員小幡氏の山城
所在地
群馬県甘楽郡甘楽町国峰
形状
山城(標高435m)
現状・遺構
現状:山林
遺構等:曲輪、竪堀、切通し、説明板
満足度
?????
訪城日
2007/10/14
歴史等
小幡氏は武蔵児玉党の一員で、西上野の主領としてその勢力を伸ばし、東は多胡緑野(多野郡)、西は西牧南牧、南は武蔵の国境、
北は碓氷川を境とし。磯部付近の地域全てを領し、国峰城の御殿から眺められる地域が全てその支配下とも云われ、
関東管領山内上杉氏の重臣として活躍したが、上杉氏亡命後は武田信玄に通じ、箕輪城主長野業政は小幡重定を逐って、
一族の小幡景定を城主とした。
永禄4年(1561)、信玄は国峰城を奪って信実(重定改名)を復住させ、上州攻略の拠点とした。以降信実は赤備え騎馬軍団を率い、
武田軍団の中核となって活躍した。信玄の病後、信実は信真と改め、天正3年(1575)の長篠
(設楽原)の合戦では中央隊として奮戦した。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、滝川一益配下となり信真は信貞と改めた。更に本能寺の変後、一益が伊勢に去ると、
後北条氏に属して信定と改めた。
天正18年(1590)の小田原の役に信定は小田原城に籠城し、
留守の国峰城は子信秀が守ったが、前田利家率いる北陸道軍分遣隊藤田信吉に落され廃城となった。
現況・登城記・感想等
上信越自動車道富岡インターを降り、甘楽町小幡方面に向かうと、国峰城跡への案内板が出てくる。
そこを右折して甘楽町国峰方面へ進むと、国峰城跡入り口(2.5km)の案内板があり、
「国峰城跡の観光車輌は途中より悪路につき注意して下さい」とある。そこを左折して道なりに1kmほど進むと山あいの道となり、
さらにをそこを進むと見落しやすい「城山入口」の小さな案内板がある。
ここを左折して本城の御前郭まで悪路を車で行こうと思ったが通行止めになっていたので、車で行くのを諦めて、
案内板近くの空地に駐車して歩いて登ることにした。
ところが、そこにいきなり「熊出没注意」の文字が!!まだ早朝で薄暗い。熊が出没しても不思議ではないかもしれない。ちょっと気味悪いが、
「初心貫徹!!」ということで歩いて登り始めると切通しへ出た。さらに、虫や鳥の鳴き声だけが聞こえる山道(大変な悪路)
を恐々歩いて行くと右側が深い谷になりはじめる。典型的な中世の山城跡の雰囲気である。
しかし、さらに登って行くと、何と道が完全に寸断されていた。どうやら今年の台風で、道が崩れ落ちてしまったらしい。この様子では、
道再開は当分無理であろう。
何年後かに、今度は大人数で昼間に登城し直そう。期待が持てそうな山城であっただけに、残念であると同時に、
ほっとしたような気持ちで戻った。
(2007/10/14)
ギャラリー
国峰城跡への案内板と国峰城遠景
甘楽町国峰方面へ進むと、国峰城跡入り口(2.5km)の案内板があり、
「国峰城跡の観光車輌は途中より悪路につき注意して下さい」とある。ここから国峰城の山が見える。
さあ登城
山あいの細い道を登って行くと、
見落しやすい「城山入口」の小さな案内板がある。ここを左折して本城の御前郭まで悪路を車で行こうと思ったが、
写真左に見える橋を渡ると通行止めになっていたので、車で行くのを諦めて、近くの空地に駐車して歩いて登ることにした。
「熊出没注意」
ところが、そこ
(上写真の奥に見える街灯のポール)にいきなり「熊出没注意」の文字が!!まだ早朝で薄暗い。熊が出没しても不思議ではないかもしれない。
切り通し
ちょっと気味悪いが、「初心貫徹!
!」ということで歩いて登り始めると切通しへ出た。
登城道横の崖
さらに、
虫や鳥の鳴き声だけが聞こえる山道(大変な悪路)を恐々歩いて行くと右側が深い谷になりはじめる。典型的な中世の山城跡の雰囲気である。
道陥没により通行止め
さらに登って行くと、
何と道が完全に寸断されていた。どうやら今年の台風で、道が崩れ落ちてしまったらしい。この様子では、道再開は当分無理であろう。
何年後かに、今度は大人数で昼間に登城し直そう。期待が持てそうな山城であっただけに、残念であると同時に、
ほっとしたような気持ちで戻った。
道陥没
強烈な崩れ方で、
傍へ寄るのも危なそうだった。