上野 箕輪城(高崎市)

二の丸の大堀切と郭馬出しへの土橋

上杉・武田攻防の城、名将長野業政が守る

所在地

群馬県高崎市箕郷町東明屋612付近

形状

平山城(標高270m)

現状・遺構等

現状:山林 【国指定史跡】
遺構等:本丸他諸曲輪跡、空堀、堀切、土塁、石垣、土橋、虎口、埋門跡、櫓台、石碑、遺構案内板、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和62年12月17日
指定理由:戦国大名の勢力域の最前線における要衝として幾度かの合戦を経験し、城として完成されたもの。
面積:18万8,684.02㎡

満足度

★★★★★

訪城日

2001/08/19
2006/09/17

歴史等

箕輪城は明応・永正の頃(1492~1521))、長野業尚(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。
長野氏は、武田信玄・北条氏康・上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、 あくまでも関東管領山内上杉の再興を図って最後まで奮闘した武将である。
特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555~1558)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と、 領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政は上杉憲政の重臣として関東管領を支え、天文10年(1541)に海野平の合戦で敗れ羽根尾城に逃れていた海野棟綱、 真田幸隆らを一時、食客として箕輪城内に住まわせていたこともある。
憲政が越後に落ちたあとも箕輪城を牙城として、上州攻略を目指す武田・北条の軍勢に対し、西上州の武将をまとめて奮戦した業政も、永禄4年 (1561)、72歳で病没した。
業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り、将兵一体となってよく戦ったが、頼む諸城が次々と武田氏の手に落ち、永禄9年(1566) 9月29日、さしもの名城箕輪城も武田氏の総攻撃により、ついに落城した。
その後、箕輪城は信玄の家臣・内藤昌豊、その子昌月を城代とし、西上州を支配したが、天正10年(1582)武田家が滅亡すると、 織田信長が家臣の滝川一益を厩橋城に入れ、 箕輪城をその治下においた。しかしこの年、本能寺の変により信長が倒れ、一益は伊勢へ退き、代わって北条氏邦が城主となって約8年在城した。
天正18年(1590)、後北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東8ヶ国を領して江戸に入ると、箕輪城には重臣の井伊直政が12万石で入り、 江戸西北の要とし、城下町も整備され、城も大手を東面から南に移すなど大改修が行われた。
しかし、中山道が五街道の一つとして重要性を持ってくると、慶長3年(1598)交通上の要地である和田(後の高崎)に移転するに伴い、 箕輪城は廃城となり約100年の歴史を閉じることとなった。
『「現地説明板」、「図説・日本の史跡6中世(同朋社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

箕輪城やその城主・長野業政は、小川由秋の「真田幸隆」や新田次郎の「武田信玄」 等々に武田方と上杉方との攻防で難攻不落の城および名将として頻繁に出てくる。真田ファンで、徳川方が嫌いでありながら、 本多忠勝とともに割合い好きな井伊直政の城でもある。当然見逃せない城址である。
この城の最大の見所は何と言っても、幾重もの複雑に入り組んだ大堀切や大空堀であろう。特に、本丸(含御前曲輪)、二の丸、三の丸を仕切る、 或いはそれらを囲んでいる大空堀は必見である。幅も広く、廃城後400年以上も経ているのに随分深く、本当にすごいとしか言い表せない。
また、本丸の広さは戦国時代から江戸初期のもので、山城或いは平山城としては最大級のものではないだろうか。そして、曲輪の数も非常に多く、 それぞれがかなり広い。
それほど比高差のある山でもないのに、武田信玄をもってしてもなかなか落ちなかったのが理解できるような気がする。
今残る土の城(石垣も結構発掘されてきてはいるようだが、基本的には土の城といえよう)では最高傑作ではないだろうか。
(2001/08/19、2006/09/17登城して)

ギャラリー

箕輪城の城郭図  ~クリックにて拡大画面に~

搦め手口から箕輪城二の丸方面を
長野氏時代は、この搦手口が大手であったと言われている。

二の丸
搦手口から登ると二の丸へ出る。 二の丸は、縦横80mほどの郭で、本丸が防御の為の郭であるのに対し、出撃の拠点の郭であり、四方へ出撃出来るようになっている。

二の丸からの眺望
それほど高い山ではないが、赤木山等を含め、かなり遠くまで見ることが出来る。

二の丸から本丸への虎口
二の丸と本丸間の堀切は相当な深さと幅があり、登城してまず最初に圧倒される。 写真右の堀の奥の平坦地は本丸門馬出し。

本丸・二の丸間の堀切(上写真の左側の堀)
登城していきなり、この深くて広い堀切に感動。

本丸門馬出し
東から南へ鍵形の土居のあった馬出しで、搦手と二の丸の両方へ出撃できるようになっている。
 

箕輪城址の碑と説明板

本丸土塁
本丸を囲う土塁は縁部を石垣で補強した腰巻土塁になっている。

本丸
奥の木々の向こうが御前曲輪である。 南北約100m、東西70mで、東側には土手を築いて、敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪まで続いていることから、 御前曲輪も本丸の一部であったと考えられる。
 

御前曲輪
本丸の詰めにあり、 精神的な中心であった。天守閣はなかった。落城の際、長野業盛以下が自刃した持仏堂があったと伝えられている。

㊧慰霊碑(箕輪城将士慰霊碑)、 ㊨井戸
井戸は、 昭和2年に発見され、多数の五輪塔などの墓石が発見された。中を覗いてみたら、まだ満々と水を湛えていた。
  

御前曲輪北堀
非常に深く、広い空堀で、 ここの空堀は、5つに分かれている。本当にすごい空堀であるが、写真では、その迫力が伝わらないのが残念だ。

本丸・ 御前曲輪間の空堀
東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路になっていた。

左の方は本丸・御前曲輪間の空堀、右奥方向へ本丸・ 三の丸間の空堀

三の丸
本丸との間は非常に深い空堀になっている。発掘調査中のようだった。

二の丸から郭馬出への土橋と大堀切
この土橋の両側の大堀切によって、城は南北に2つに区切られ、 土橋一つで連絡されている。このように、一方を失っても戦闘を続けられる仕組のものを「一城別郭の城」という。「箕輪城跡保存会」 (現地説明板より)

二の丸の大堀切と郭馬出しへの土橋

二の丸の大堀切
これだけ草茫々でも、 深く広い堀切であることが、写真でさえもはっきり分かる。

郭馬出し
郭馬出しは、50m×30m程の郭で、周りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、 土手の両側から打って出る所である。高崎城の梅木郭はこの郭馬出しを手本としたものであろう。「箕輪城跡保存会」(現地説明板より)

郭馬出しの石垣
郭馬出しで、藪の中に石垣を見付けた。

木俣
通路が、二俣・三俣のように5つの方向に分かれるのを木俣という。 ここがその形をしているので木俣と呼ばれる。

木俣と南側の曲輪の間を繋ぐ土橋と堀切
二の丸の大堀切は圧巻であるが、この辺りも凄い!

大手尾根口(左)と大手尾根筋の腰曲輪(右)

大手尾根筋の腰曲輪

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント