南西曲輪群の大石垣
嘉吉の乱にて滅亡後、再興赤松氏の本拠
所在地
兵庫県姫路市夢前町宮置
形状
山城(標高:370m)
現状・遺構等
現状:山林 【国指定史跡】
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2006/11/25
歴史等
赤松氏は円心(則村)に至って、足利尊氏のもと播磨・備前・美作3国の守護を兼ねて大いに家名を上げた。しかし、嘉吉元年(1441)
6月24日、円心から3代後の満祐が6代将軍義教を謀殺するという嘉吉の変を起こした。播磨龍野の奥の亀の山城(城山城・きのやまじょう)
に立て籠もった満祐は、強大な幕府軍を迎え、一族と共に戦死した。赤松家の衰退後の播磨・備前・美作は戦功により、山名氏が全て領有した。
赤松氏は壊滅的打撃を受けたが、逃げ隠れていた遺臣達が、満祐の弟義雅の孫政則を盛り立てると共に、幕府へ赤松家再興を願い出た。
その条件として後南朝に奪われた神璽(やさかにのまがたま)を取り返すことを訴えた。そして赤松残党は、嘉吉の変から16年後の長禄元年
(1457)12月1日、吉野を襲った(長禄の事変)。事変の結果については諸説あり定かではないが、赤松氏は再興を許され、
政則が当主の座についた。
そして応仁の乱の時、細川勝元は政則に、播磨に下向させ山名氏を討たせた。その後さらに、山名氏撃退により、政則は播磨守護に任じられ、
姫路城を本拠とした。
しかし当時はまだ山名氏の影響が強く、但馬方面に対処するために、文明元年(1469)置塩城を新しく築き本拠とした。その後、政則は、
備前・美作の旧領も回復した。
天正5年(1577)、5代則房の時、羽柴秀吉の中国攻めで降伏し、秀吉に従った。秀吉は、中国攻めの拠点として姫路城を築城したが、
この時置塩城は解体されて、姫路城の資材として移された。
姫路城
「と」の門が置塩城大手門を移築したものといわれている。
『「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
山麓の登山口に置塩城跡の碑と置塩家の墓がある。登り始めてすぐ「登山道置塩城跡江十八丁」の石碑がある。丁とは昔の距離単位で、
現在の距離単位に直すと1丁で約109mになる。即ち、18丁は約2kmということになる。赤松氏の本拠の城跡ということで、
相当な登りを覚悟していただけに、少しほっとしたような気持ちになった。
7~8丁目辺りまでは、鬱蒼とした森の中を、ただただ歩くのみであるが、
8丁目から上になると周りの景色が木々の間から見えてくるようになる。18丁目が茶室跡になり、
そのすぐ傍に置塩城の簡単な縄張りが分かる案内図がある。
それを見て、まずは本丸跡へ向かう。途中、「ハチ注意」の看板があったので廻りを見ると、木の上にでっかいスズメバチの巣があった。
本丸には腰曲輪が何段もあり、一番下の曲輪の石垣は結構残っている。本丸からの景色は素晴らしく、天気がもうひとつで、
やや霞んでいるものの瀬戸内海の島々がよく見える。
次に、台所跡・二の丸跡・二の丸北曲輪群・三の丸跡と廻った。台所跡に石垣が少し残っている。三の丸や二の丸の土塁もよく見ると、
ここも石垣であったのが分かる。また、そこらじゅうにブルーシートが被せられていたが、石垣が崩れないように覆ってあるようだ。
二の丸にも多くの腰曲輪がある。
三の丸や北曲輪は実に広い。次に、二の丸の西側を通って案内図の所に戻ったが、その途中にも石垣があった。
最後に、南西曲輪群へ向かった。途中に大手門への道が草に覆われていた。今は通るのは無理なようである。南西曲輪群には、
大石垣というのがあり期待していたが、先程見た石垣とそれほど変わらなかった。
置塩城は、さすが赤松氏の本拠の城であり、結構規模も大きいが予想以上のものではなかったし、体力消耗も少なかった。尤も、
さらに発掘調査が進んで整備されたら、また違ったものとなるのであろう。
(2006/11/25登城して)
ギャラリー
㊧登城口、
㊨置塩家の墓
登り始めてすぐ「登山道置塩城跡江十八丁」
の石碑
丁とは昔の距離単位で、現在の距離単位に直すと1丁で約109mになる。即ち、
18丁は約2kmということになる。赤松氏の本拠の城跡ということで、相当な登りを覚悟していただけに、
少しほっとしたような気持ちになった。
18丁目は茶室跡
㊧18丁の石碑、石垣の上が茶室跡、㊨茶室跡
㊧「ハチ注意」の案内と右奥の木に蜂の巣、
㊨スズメバチのデッカイ巣が
本丸腰曲輪の石垣
あらゆる処に石垣が使われていたようであるが、
崩れ易くなっているのでブルーシートがそこらじゅうに。ちょっと興醒め
㊧本丸、
㊨本丸から瀬戸内海方面眺望
本丸からの眺望は素晴らしいが、ややモヤがかかって・・・。
台所跡
台所跡は結構広く、土塁・
石垣も認められる。しかしここにもブルーシートが。
三の丸
三の丸は非常に広い。
左奥には土塁が、三の丸にも石垣がわずかに残っている
二の丸と三の丸間の空堀(通り道になっている)
二の丸跡
二の丸の周りには段差のある腰曲輪がいくつもある。
二の丸の石垣
二の丸西側の石垣もいくらか残っている。
二の丸南西部の石垣
ここの石垣はよく残っている。
南西曲輪群の大石垣
この石垣も一見の価値がある。
山麓の櫃蔵神社と大銀杏
(背後の山が置塩城であるが、神社脇に大手道らしき道がある)
置塩城5代城主赤松則房が天正5年(1577)、羽柴秀吉に服して開城したとき、城の守護神は当神社と糸田の柏森神社、
恒屋の櫃倉神社の3所に分祀された。
置塩城跡の遠景