出雲 松江城(松江市)

現存天守閣

堀尾吉晴により築城、山陰唯一の現存天守の残る城

別名

千鳥城

所在地

島根県松江市殿町

形状

平山城

現状・遺構等

現状:城山公園(本丸・二の丸)、三の丸は県庁敷地
遺構等:現存天守、復興虎口一の門(長屋門)、復興続南多聞櫓、石垣、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

1997/08/13

歴史等

豊臣秀吉、徳川家康に仕え、明智光秀討伐戦や関ヶ原の合戦などで武功をたてた堀尾吉晴は慶長5年(1600)出雲・ 隠岐両国23万5千石の太守として広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利だったことと、 侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由から、この極楽寺山(亀田山ともいう)に城地を移した。
築城工事は慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360m、 南北560mあり、周囲に幅20m~30mの内堀をめぐらす。
標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多聞がめぐっている。 天守は本丸の東北隅に築かれている。二の丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。 本丸の東側の平地は二の丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。その外、本丸の周辺部は腰曲輪・中曲輪・外曲輪・ 後曲輪があった。城山の南には三の丸(今の県庁付近)があり、藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江市東部の大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され、 堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
城主は堀尾氏3代、京極氏1代といずれも嗣子なく断絶した後、徳川家康の孫(結城秀康の三男) にあたる松平直政が城主となり松平氏が10代234年続き、一度の戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えた。
明治8年無用櫓や多聞など多くの建物はことごとく壊されたが、天守だけは旧藩士や豪農などの有志の奔走により保存されることになり、 昭和25年~30年の解体修理を経て、現在、山陰地方唯一の現存天守として、その威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。
『現地案内板及びパンフレットより』

現況・登城記・感想等

松江城は、城そのものも山陰地方唯一の現存天守を有しているだけに、勿論悪くはないが、 今も往時を偲ばせる城下町も含めて見るべきであろう。
まず城下であるが、城のお堀端に沿った塩見縄手は今も江戸期の風情を醸し出している。そして、小泉八雲旧居や武家屋敷の遺構も残っている。
城内へは、稲荷橋・亀田橋・千鳥橋・惣門橋の4つの橋と、大手前の駐車場のところが城内と繋がっている。 天守閣は望楼式の複合天守で5層6階で、壁は黒く塗った雨覆板(下見板張り)である。 白壁に覆われた姫路城などと違い見た目に派手さはないが、重厚な感じがして、これはこれで悪くはない。
天守閣内は階段が急であり、柱や梁も歴史を感じさせる色合いであり、また、しっかりしたものが使われており、 さすが現存天守だということが実感できる。また、天守閣最上階からは四方が見渡せ、とりわけ宍道湖の眺めは最高である。
湖畔の城はいくつかあるが、天守からの眺望が素晴らしい城は、松江城を第一とし、別名を「千鳥城」と称するそうである。
【松江の食】
何といっても、松平不味公(七代藩主・松平治郷)の土地柄である。不味い訳がないというわけで、登城前夜に宍道湖藩の「皆美」に行った。 さすがに、この松江も全国に数多い小京都と云われるひとつである。お店の雰囲気も食事も良かった。当時、京都に住み、自称・ 京都の食通の私も充分満足した。
そして登城日の昼食には、やはり「出雲蕎麦」だろうということで、塩見縄手にあるお店に入ったが、これは残念ながら、 私にはもうひとつという感じであった。やはり、信州や福井・今庄や山形の蕎麦が一枚上かな。

ギャラリー

松江城の特徴(パンフレットより)  ~クリックで拡大~

いざ登城

天守(南面)

地階の井戸
地階「穴蔵の間」は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫であり、中央に深さ24mの井戸がある。

木彫り青銅張りの鯱

天守閣から宍道湖方面の眺望
松江城の特色のひとつに、6階望楼から四方全方角とも見渡すことができる美しい眺望がある。

城下町・塩見縄手
城のお堀端に沿った塩見縄手は今も江戸期の風情を醸し出している。

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