信濃 諏訪高島城(諏訪市)

復元された天守

旧領諏訪に戻った諏訪氏10代270年の「諏訪湖の浮き城」

別名

島崎城、諏訪の浮き城

所在地

長野県諏訪市高島1丁目、高島城址公園

形状

水城

現状・遺構等

現状:高島城址公園、市街地
遺構等:復元天守・櫓・門、曲輪、石垣、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

1997/05/02

歴史等

天文8年(1539)頃、茶臼山城主・諏訪満隆が出城を置いたのが始まりとされる。

以下『高島城パンフレットより』
高島城は天正18年(1590)新しく領主となった豊臣秀吉の武将・日根野織部正高吉によって、翌天正19年(1591)に設計され、 文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成した。
この高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり、濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り、「諏訪湖の浮城」と呼ばれ慶長6年 (1601)旧領諏訪に帰った初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に到る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。
明治4年(1871)廃藩置県となリ、明治8年(1875)廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治9年(1876)5月、高島城址は 「高島公園」として、一般に開放された。朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、 昭和45年(1970)春、ここに「高島城」は復興された。
『以上パンフレットより』

ちなみに、現在の城跡は、本丸部分だけが残っていて、三層の天守閣・隅櫓・櫓門・塀が復元されている。この天守は、 明治初期に撮影された1枚の写真を基に復元されたそうである。
また、この城は3万石の諏訪藩には過ぎた城で『諏訪の殿様よい城もっちゃる。うしろ松原まえは湖』と詠われたそうである。
南の丸には改易となった徳川家康の六男・松平忠輝や吉良義周(吉良上野介の嗣子)が預けられていた。

現況・登城記・感想等

かつては諏訪湖に浮かぶ水城であったようだが、今では住宅地に埋没している。
復元天守は、壁面が茶色で珍しいが悪くはないと思う。本丸は公園となっていて綺麗に整備されてはいるが、当時を偲ばせるものは残ってない。
(1997/05/02訪城後)

ギャラリー

「諏訪の浮城」の面影が少しは?
諏訪高島城

諏訪高島城

法華寺(高島城のすぐ隣にある)
織田信長は、武田氏討伐後、諏訪大社上社の神宮寺であるこの法華寺に入り本陣を敷いた。この時、家康も訪れており、 論功行賞が行われたという。この時、明智光秀は信長の怒りに触れ諸将の前で折檻されたという。また、吉良義周(吉良上野介の嗣子) の墓もある。
法華寺(諏訪)

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