金山城(太田市)

関東七名城の一つである堅城・金山城は、関東では珍しい石垣の多い山城
所在地
群馬県太田市金山町40-98
形状
山城(標高235.8m)
現状・遺構
遺構:曲輪、土塁、石垣、堀切、虎口、井戸、復元木橋
【国指定史跡】
指定日:昭和9年12月28日、追加指定:平成14年9月20日
満足度(10点満点)
8点
歴史等
金山城は南北朝時代、足利尊氏と新田義貞による攻防の舞台となったとも伝えられるが、一般的には、文明元年(1469)、
新田一族の岩松氏によって築かれたとされている。
文明3年(1471)4月、古河公方足利成氏は8千の兵で金山城に押し寄せ、70日間攻め続けたが攻略することが出来ず撤退した。
金山城は築城早々に難攻不落の城であることを天下に轟かせたのである。
しかし、家老の横瀬氏が次第に主家を凌ぎはじめ、下剋上が成功した。永禄6年(1563)頃、横瀬氏は、成繁の代に姓を由良に改めた。
成繁は南に北条氏、北に上杉氏、東は佐竹氏、西には武田氏と四者の脅威にさらされながらも、
金山城を拠点に上杉氏や後北条氏と同盟を結んだり破棄しながら、周辺の支配に腐心した。その間、上杉氏や後北条氏が金山城に攻め寄せたが、
そのたびに撃退している。
しかし、成繁の子国繁の時代になると、後北条氏の勢力は、さらに強大なものとなり、天正12年(1584)
国繁は和を結ぶため小田原に赴いたものの、身柄を拘束されてしまった。後北条氏は主のいない金山城を攻めたが落とすことが出来ず、
国繁を解放することを条件に城を手に入れた。
天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐に際して、後北条氏は戦わずして金山城を放棄した。
ちなみに、由良氏は国繁の母・妙印尼の働きにより豊臣方前田利家軍に加勢し、松井田城攻めに加わったので、秀吉により常陸国内(牛久)
に5千石余の領地を与えられ命脈を保っている。江戸時代、由良氏は嗣子なく断絶となるが、その由緒や関が原・大坂の陣の功績により牛久・
谷田部(つくば市)に1千石で再興した。
明治8年(1875)、実城域の天守曲輪(本丸)跡に新田義貞公を祀った「新田神社」が創建された。
『参照:日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、サイト「ザ・登城」』
【関東七名城】
唐沢山城(栃木県佐野市)、常陸太田城(茨城県常陸太田市)、厩橋城(群馬県前橋市)、宇都宮城(栃木県宇都宮市)、川越城(埼玉県川越市)
、忍城(埼玉県行田市)とこの金山城を指す。
訪城日
2006/09/23
現況・登城記・感想等
関東七名城の一つ金山城は、関東には珍しく石垣がかなり多く使われている。
金山城は金山山頂にある実城を中心に放射線状に延びる尾根に、北城(坂中)・八王子山の砦・西城の4つの城域からなる。
平成4年から発掘調査が行われ、平成6年から実城を中心に史実に忠実に復元がされてきており、それぞれに説明板があり非常に分かり易い。
曲輪、土塁、堀切、物見台等々の遺構が非常によく残っており、また石垣の復元もよくされている。中でも、物見台下虎口
(馬場下通路土橋の手前から見る)石垣や大手虎口から見る石垣は圧巻である。
また物見台下虎口手前の岩盤を削って掘った堀切や、馬場曲輪横の大堀切も見事である。そして、235.8mの独立峰であり、
物見台からは勿論のこと、南曲輪や本丸からの眺望も素晴らしい。
西城は、まだ復元事業は進んでいないようではあるが、土塁や虎口も多く残っている。今後、整備事業がされていくのであろうが楽しみである。
まさに関東屈指の名山城である。
(2006/09/23登城して)
ギャラリー
本城(実城)の登り口の碑
西矢倉台西堀切(木橋の上から) (下から撮影)
この堀切は西城から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切で、
堀底に石を敷いて通路としても利用していた。
西矢倉下堀切
この堀切は実城(本丸)へ向かう間の2番目の堀切となる。この堀切は規模は小さいが、断面の形が上部が逆
「ハ」の字で、下部が箱状(凵)に掘られ、簡単に登れないように工夫されている。
西矢倉台跡 西矢倉跡からの眺望
物見台下虎口(馬場下通路)と土橋(両側に堀切)
通路の正面には石積みが立ちはだかり、その先を見せないように工夫されている。
左側は岩盤を削った堀切になっている。
馬場下通路の土橋横の岩盤を削った堀切(右側岩の上は物見台)
実に強烈なインパクトを与えてくれる。しかし、それほど深くないのはどうしてかな?
馬場下通路の復元木橋(木橋の下は強烈な竪堀である)
竪堀(見事な竪堀である)
竪堀(下から)
大手口馬場跡(奥に見えるのは物見台) 物見台
物見台からの眺望(さすがに物見台。眺望が素晴らしい!!)
馬場曲輪(大手馬場から) 馬場曲輪(月ノ池の所から)
ゴツゴツした岩の向こうの台地が馬場曲輪跡 手前には月の池、右側には大堀切が。
大堀切 大堀切の石積みの防御
この大堀切は、金山城の中でも最も主要な防御拠 堀底には、長さ約7m、高さ1.5m、幅約1.
8m
点である大手虎口の目前にあるため、長さ約46m の石積みで出来た畝状の防御施設が1箇所見つ
、堀幅約15m、深さ約15mと大規模に造られてい かった。堀底が平らになっていることで敵の侵入
る。 経路にならないように障害物として造られた?
月ノ池手前から大手虎口方面を 月の池
月の池は、直径7m、深さ2.5mで、上下2段の石垣で囲まれ、
石敷き平底で構成された戦国時代の池であった。
大手虎口
南曲輪から大手虎口上段曲輪(手前)等の虎口曲輪跡を
井戸は、虎口曲輪で生活していた武士達が使用していたと思われる。井戸底には補強の為の木枠が残っている。
左の建物は復元された武器庫。
日ノ池 発見された2箇所の井戸と石段の一つ。
15m×16.5mのほぼ円形の池で、石垣や石敷き、2箇所の石組み井戸と石段が発見された。日ノ池は、
山の上では稀な大池であり、金山城の象徴的な場所のひとつである。生活用水を確保した場所ではなく、
戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられる。
南曲輪 南曲輪からの眺望
南曲輪からの眺望は素晴らしく、遠く富士山まで見えるようであるが、今日は残念ながらやや霞が。
本城 天守曲輪(本丸)への石段
金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約1万坪ある。実城とも言い、城主の御殿があった所なので、
城主を実城とも呼んだ。石段右手前の楠は大変な巨木であった。
天守曲輪(本丸)の新田神社 天守曲輪(本丸)からの眺望
天守曲輪は、本城最高位の郭で、戦前は本丸と言われた。この郭は金山城鎮護の神聖な地域であり、
源氏の守り神である八幡宮が祀られていた。明治8年(1875)、新田義貞を祀った「新田神社」が創建された。
金山城(実城を中心に)の絵図
【西城】
筋違虎口城門跡
二重の堀切(右手前と左奥)と土塁によって構成されている。
土塁と虎口?
虎口らしき遺構があったが、果たして? 特に、左写真の左に移っている切り通しはどうも?!
これも近いうちにはっきりするだろう!