館周囲をめぐる水堀(写真は東側部分)
新田義貞が居城した館
別名
反町城
所在地
群馬県太田市新田反町町894、照明寺
形状
館
現状・遺構等
現状:照明寺一帯
遺構等:曲輪、土塁、水堀、碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:平成12年11月1日
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/09/23
歴史等
築造は鎌倉時代から南北朝時代と推定されている。新田義貞がここに移り住んだといわれている。
戦国時代には、金山城の支城として、
由良氏の臣矢内時英が居城し、三重の堀を巡らす城郭に拡張された。
天正9年(1584)北条氏が金山城攻略に先立ちこの地を奪い本陣とした。
天正15年(1590)、豊臣秀吉の北条攻めで廃城したと伝えられる。
土塁は基底部で10~13m、高さ4~6mあり、堀は幅10~20mある(ただし、東側の堀は道路補修の際に拡張されたものである)。
館跡の平面形は凸字形で、南側で約120m、北側で約73mあり、東西両側に「折」を持っている。出入り口は南東角と西側の2箇所にあった。
現在、館内にある照明寺は、以前は、堀の西側にあったが、正徳4年(1714)火事にあった際にここに移転したと伝えられている。
照明寺の本尊は厄除け薬師として有名で、毎年1月4日の縁日には大勢の参詣人で賑わう。
『現地説明板、サイト「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」参照』
現況・登城記・感想等
広い館(館内には照明寺がある)の四方をかなり広い水堀に囲まれ、土塁もよく残っており、
まさに中世の館らしい雰囲気を醸し出している。また、土塁の上に建っている「新田義貞公古城跡」
の碑が遠い昔の太平記の時代の郷愁を呼び起こしてくれる。
(2006/09/23訪城して)
ギャラリー
水堀(館の四方が水堀に囲まれている)
㊧東側の堀、㊨南側の堀
東側の堀は、道路補修時に拡張されている。南側の堀の外側の道路を挟んで土塁があるが、こちらは道路によって狭められているのかな?
㊧西側の堀、㊨北側の堀
曲輪跡
曲輪跡には照明寺があり、本尊は厄除け薬師(反町薬師)として有名で、
毎年1月4日の縁日には大勢の参詣人で賑わう。
土塁
新田義貞公古城跡の碑