居館大手口
真田氏の真田在住時代の居館
別名
御屋敷
所在地
長野県上田市真田町本原、御屋敷公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:御屋敷公園
遺構等:曲輪、土塁、石垣、虎口、厩跡、碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
1996/05/02
2006/09/17
歴史等
真田氏が真田在住時代の居館跡で、地元ではお屋敷と呼び、つつじの名所としても親しまれている。
真田幸隆により平素の居館として構築されたと推定される。幸隆の死後は信綱が跡を嗣いだが、天正3年(1575)長篠・
設楽ヶ原の合戦で信綱・昌輝兄弟が討ち死にし、幸隆の三男・真田昌幸が真田家を相続した。天正13年(1585)
に真田昌幸が上田城に移り真田氏館は廃された。
居館跡は、周囲を東辺80m・西辺130m・北辺150m・南辺160mの梯形状の土塁で囲まれており、外周は堀が巡っていたと推定される。
特に、北面は大沢川が天然の堀となって、現在も残っている。土塁は、広い所では7.5~8m、高さ2~2.
5mで土石混合をもって築き上げてある。
土塁の南面には大手門、北面には搦手門があり、南東の角にも小規模な門があったと云われている。
土塁内は東と西の2段の曲輪からなっており、東曲輪上段には、真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太神社が祀られている。
西下段の北西隅には、約10m四方に区画された厩と称される土塁が見られる。
この居館跡は中世豪族の居館形態が、ほぼ完全な形で保存されており、後世の大真田氏に発展した貴重な遺跡といえる。
『参照:現地説明板、サイト真田町ホームページ』
現況・登城記・感想等
初めての真田の町である。町の入口の真田氏記念公園にある「真田氏発祥の郷」の石碑が見えてきただけで嬉しくなってきた。
真田氏居館跡は、さほど規模は大きくもなく特別な印象があるものではなかったが、「ここが、あの真田三代が居住した所なんだ」
と思うとやはり感慨深いものがあった。
(1996/05/02訪城して)
10年ぶりに2度目の登城をした。この史跡は、地元市民の憩いの公園になっており、ゲートボールとパークゴルフの中間のようなゲーム
(北海道で盛んなパークゴルフをゲートボール用のスティックで打つ=マレットゴルフというそうである)の場所になっていた。
この平和な光景を見て、幸隆・昌幸父子も喜んでいるかもね。
(2006/09/17登城して)
ギャラリー
居館の図
居館跡には真田昌幸が勧請した皇大神宮が建ち、周囲は東辺80m・西辺130m・北辺150m・
南辺160mの梯形状の土塁で四方を囲まれており、外周は堀が巡っていたと推定される。また、桝形、廐跡の遺構が残っている。土塁は、
広い所では7.5~8m、高さ2~2.5mで土石混合をもって築き上げてある。
大手口脇の土塁
丸っこい土塁が特徴的である。
東曲輪(居館は東と西の2段の曲輪からなっている)
皇太神社(東曲輪上段には、真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太神社が祀られている)
東門跡と土塁
南東の角にも小規模な門があったと云われている。両側から続く土塁は、それほど高くはないが、
結構幅が広くしっかりしてる。
西曲輪
西曲輪はやや低くなっているが、芝生がきれいで、マレットゴルフにはぴったり。
厩跡
北西隅に、
約10m四方に区画された厩と称される土塁が見られる。また、この芝生がきれいであるが、馬小屋跡などと考えると妙な気持ちだ。
搦手門跡
搦手門脇の土塁
親水広場
居館の北面にあたるここは、大沢川が天然の堀となっていたそうであるが、今も親水広場として、
その名残がある。