ハーバー通り脇から望む円形大劇場
小アジアで最も重要な商業地として栄えた城塞都市、数々の遺構が良好に残る
別名
エフェソス(Ephesus)
所在地
トルコ共和国イズミール県エフェス(Efes)
歴史等
エフェスを最初に造ったのは定かではないが、知り得る限りでは、紀元前2000年にさかのぼり、地母神キベレ(のちのアルテミス)神殿近くに存在していたことが確認されている。最も古いところでは、アマゾネスが町を建設したという記録もあり、その後カリアヌス人とレレジアヌス人が定住を始めたらしい。
そして、紀元前11世紀にイオニア人により征服された。最初の王アンドロクロスは、神殿から1.5kmの海岸沿いに新しい町を造り、人々をそこに住まわせた。そして、紀元前6世紀までに半独裁政治の形で国を統一し、同世紀の半ば頃まで暴君として支配していた。
その後、リディア王コレソスが町を支配するようになった。しかしコレソスがペルシアとの戦いに敗北すると、エフェスはほかのイオニア都市とともにペルシアの支配下に入った。
紀元前334年のグラニコス戦争後、アレクサンダー大王がエフェスを攻略し、ペルシャ人から町を奪い返し、紀元前283年には大王の後継者の一人リシマコスが制服した。リシマコスはピオン山とコレッソス山の間に新しいエフェスを建て、町を城壁で取り囲んだ。エフェスはこの地方で最も裕福な町の一つとなり、貿易の中心地となった。競技場、体育場、劇場などが造られ、町はヘレニズム時代、ローマ時代までその繁栄は続いた。
リシマコスの死後、エフェスはエジプトとシリアの支配下に入った。そして、紀元前190年にローマ人によって攻略された。
ローマ人はペルガモンを通じて長い間、間接的にエフェスを統治していたが、その後エフェスは首都となり、「アジアのローマ州」の最も重要な商業の中心地となった。現在残る遺跡のほとんどがこの時代のものである。
紀元後1世紀までエフェスはローマや隣国との関係をよく保っていたが、紀元後17年の地震によってエフェスは完全に破壊されてしまった。その後ティベリウス大帝の時代に修築され、ハドリアヌス大帝によって様々な寺院などが建造された。この新しい建物によって、エフェスはヘレニズムの特徴を失い、ローマ帝国の建築スタイルを持つようになった。
キリスト教が布教されるころになると、エフェスは政治上だけでなくキリスト教上の重要性も持つようになった。聖母マリアは晩年をエフェスで過ごしたといわれている。しかし、貿易港としてのエフェスは衰退し、ユスティニアヌス帝の時代にはアヤソルクの丘(セルチュク)へと市民は移住していった。アヤソルクの丘にはユスティニアヌス帝が建てた聖ヨハネの教会もある。1090年にトルコ人によって支配されるまで、この地は栄え続けた。
エフェソスでは6世紀に港の沈降が進み、またアラブ軍の攻撃を受けるなどし、住民はアヤソルクの丘へと移住し、都市は廃墟となった。
『エフェソス(kestin Color Kartpostalcilik Ltd.Sti.Matbaasi刊)他より』
現況・登城記・感想等
エフェスは、今回の訪問遺跡(トロイ、ベルガモ、エフェス等々)の中だけでなく、エーゲ海、地中海沿岸地域でも最も良好に遺構が保存されているとのことである。
エフェスに近づくとバスの窓から水道橋の遺構が見えてきたと思う間もなく、遺跡南入口に到着した(入場口は北と南の2つがある)。
エーゲ海沿岸の真っ青な広~い空が広がっている。入口を入り、右の方を見ると非常に存在感のある遺構が目に飛び込んできた。それはヴァリウスの浴場跡だった。左を見ると、無数に並び立つバシリカ(礼拝所)跡の白い大理石の円柱の列と相俟って眩しいばかりだ。
バシリカの前にはオデオンがある。それほど大きなものではないが、よく残っている。オデオンの隣にはプリタニオン(市庁舎)の円柱や礎石等々がある。その遺構の数々を見ると、豪華な公会堂であったのがよく分かる。背後の山の上を見上げると城塞の石垣も見える。
大理石が敷きつめられた「クレテス通り」を降りて行くと、次に現れるのが「ポリオの泉」と「ドミティアヌスの神殿」、そして次に「ヘラクレスの門」、「トラヤヌスの泉」、「ハドリアヌスの神殿」、「スコラスティカの浴場」、「公衆トイレ」、「娼楼」と次々と遺構が続く。
そして、突き当りには「セルシウス図書館」がよく残っている。図書館の横の「マテウスとミトリアデタスの門」を潜ったところは「アゴラ(市場)跡」である。
図書館の前を右に曲がった通りが「大理石通り」である。その傍らに、娼婦宿の広告だと言われる石に彫られた足跡の道しるべがある。
そして、いよいよ「大劇場」が現れる。非常に良好に残っており、今でも使われているとのことである。その正面から「アルカディア(港)通り」がかつての海に向かって伸びている。アルカディア(港)通りからは、ピオン山を背後に従えた「大劇場」の姿が素晴らしい。
本来は「聖母マリアの教会」等々、まだまだ見所があるようだが、これで時間制限一杯。それでも、実に見応えのある遺跡であった。
規模はともかく、遺構が実に良好に残り、人によっては、フォロ・ロマ-ノよりも素晴らしいと言う人もいた。
(2008/03/14訪れて)
ギャラリー
水道橋
エフェスに近づくとバスの窓から水道橋の遺構が
ヴァリウスの浴場
2世紀に造られたもので、床下暖房の典型的なローマ風呂の形を残している。ここには冷水浴場、温水浴場、休憩室、読書室、浴場サロンもあったそうだ。
バシリカ(後方にオデオンが見える) ~クリックにて拡大画面に~
遺跡南入口を入り左を見ると、無数に並び立つバシリカ(礼拝所)跡の白い大理石の円柱の列と相俟って眩しいばかりだ。オデオン(音楽堂)の収容人数は1400人で、劇場のような建物に屋根が付いていたそうだ。全市民が参加する議会を大劇場で行ったのに対し、こちらでは300人の代表者会議やコンサートの際に利用されたとのことである。
プリタニオン(市公会堂・市庁舎)
オデオンの隣にはプリタニオン(市庁舎)の円柱や礎石等々がある。その遺構の数々を見ると、豪華な公会堂であったのがよく分かる。背後の山の上を見上げると城塞の石垣も見える。庁舎の上部はローマ時代のもので、下部はヘレニズム時代のもの。紀元後1世紀ないし2世紀に建設されたと思われる。かつてはここに聖火が灯され、火が消えることはなかったという。
ドミティアヌスの神殿とポリオの泉
右奥がドミティアヌスの神殿、左手前がポリオの泉。ドミティアヌスの神殿は、皇帝ドミティアヌスを祀る50m×100mの神殿が建てられていたが、家臣たちの手によって皇帝が殺された後に神殿は取り壊された。2階建てで、1階には倉庫と店が、2階には神殿が設けてあった。
ポリオの泉
紀元後1世紀にオフィリウス・プロクルスがC.セクスティリウスに捧げる為に造ったもので、泉の全面は大理石で覆われた像で装飾されていたらしい。
メミウス記念碑
ドミティアヌス広場を飾っていた記念碑の一つで、1世紀に独裁者スラの孫メミウスに捧げる為に造られた。
勝利の女神ニケ
ローマ時代のもので、ドミティアヌス広場の遺跡の中から発見された。翼を持った女神ニケのレリーフで、左手には勝利の象徴冠が、右手には小麦の葉がある。
ヘラクレスの門
クレテス通りに建つヘラクレスの彫刻を施した左右対の門である。上の写真の勝利の女神ニケのレリーフは、本来この門のアーチとして飾られていたものだそうだ。
トラヤヌスの泉
三角ファサードが特徴的である。102~104年に建立され、皇帝トラヤヌスに捧げられた。この泉は左側部分を復元したもので、台座にはオリジナル部分も残るが、ほとんど原形を留めておらず、修復された正面から往時の姿を想像するしかない。
クレテス通り ~クリックにて拡大画面に~
トラヤヌスの泉の前辺りから撮ったもので、正面にセルシウス図書館が見える。敷きつめられた大理石が真っ青な青空に映えて眩しいばかりだ。
クレテス通りのモザイク
富裕階層の住宅地の一角には、モザイクが敷かれている。小さなタイルでトルコ独特のモザイク模様となっており、一般庶民と区別して上流階級しか歩けなかったといわれる。
ハドリアヌスの神殿
2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられたもので、正面玄関の装飾が美しく、手前のアーチ中央には女神ティカ、奥の門には両手を広げたメドゥーサが彫られている。
公衆トイレ
壁際に並んでいる。当時はトイレが情報交換の場だったので仕切りがなかった。
下には水が流れている水洗便所であったそうな。
娼館(写真後方は大理石通り)
4世紀のものである。宿にやって来た客は、まず手と足を洗ってから廊下を通り大広間に入っていった。また、セルシウス図書館から地下道で繋がっていたそうだ!これってどういう意味!?
セルシウス(ケルスス)図書館とマゼウスとミトリアダテスの門
図書館は非常に良好に残っている。アジア州の総督だったセルシウス(ケルスス)の死後の135年、息子のC.ユリウスが父の墓室の所に記念に築き上げた。墓所は館の裏手にある。マゼウスとミトリアダテスの門は、マゼウスとミトリダテスは皇帝の奴隷であったが解放され、経済的に成功後、皇帝一族に寄進されたものである。
セルシウス(ケルスス)図書館と女性像
図書館の正面には知恵、運命、学問、美徳をそれぞれ象徴する4つの女性像がある、オリジナルはウィーンの博物館にあり、ここにあるのはコピーとのことである。
アゴラ(市場)
「マテウスとミスリアデタスの門」を潜ったところは「アゴラ(市場)跡」である。
図書館からピオン山方面を ~クリックにて拡大画面に~
山の上には軍事施設・城塞の石垣が見える。手前は娼館。
古代の売春宿の広告?
左下の女性像が「女の子が待っている」。その左のお金が「お金を持っておいで」。上のハートが心を込めてサービス」。そして、足にはいろいろな説があるようで、「足がこの足型より小さい人は、まあだまだ入れないよ」との説もあるとのこと。
大劇場①
演劇の上演や全市民参加の民会の会場にもなった、収容観客数2万5千人のこの大劇場は、非常に良好に保存され、今でも使われているとのことである。観客席は直径154m、高さ38mの半円形もある。
大劇場②(ハーバー通りから撮影) ~クリックにて拡大画面に~
大劇場③(劇場体育館手前から撮影) ~クリックにて拡大画面に~
アルカディアン通り(ハーバー通り・港通り)
街の中でも最も重要なこの通りは、大劇場から港へと延びている。長さ530m、幅21mの道の両側には柱が並んでいた。今もその柱がかなり残っている。大理石で舗装された道の中央部分は幅11m、両側の柱廊は幅5mであった。像で飾られていたこの通りは夜になると蝋燭のような街灯によって照らされていたらしい。通りを改修したアルカディウスにちなんでアルカディアンと名付けられた。通りの終点にはハーバーゲートがあり、今でも建っているが、門の周辺が沼地であるため立ち入ることができないとのことである。
劇場体育館