ツィタデラの外観
ブダペストを監視するためにハプスブルク帝国が築いた要塞
所在地
1118 Budapest, Citadella sétány 1
訪城日
2012/05/29
歴史等
1848年のフランス2月革命は、ハプスブルク帝国にも大きな影響を与え、領内各地で、長く専制的抑圧に苦しんだ諸民族が自由と解放を求めて、相次いで蜂起した。
ハンガリーにおいても、完全な自治を要求する「三月法」が皇帝に提出され革命政府が成立した。
しかし、同年10月6日、ハプスブルク帝国はハンガリーに宣戦を布告し、1849年1月、ブダペストを占領した。そして、8月13日ハンガリーを降伏させ、全土は反革命の手に落ちた。
独立戦争後のハンガリーは、ハプスブルク帝国の属領となり、ハプスブルク帝国の軍政下におかれた。
そして、ハプスブルグ帝国がハンガリーの独立運動を鎮圧した後の1850年に、ブダペストを監視するためにツィタデラが建てられた。
第2次世界大戦では、ナチス・ドイツに占領され、ブダペストの町はここから砲撃を受けた。
『ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史・矢田俊隆著(山川出版社刊)」、「地球の歩き方ハンガリー(ダイヤモンド社刊)」ほか参照』
現況・登城記・感想等
ツィタデラは、ブダ城(王宮)の南にある標高235mの岩山(ゲレルトの丘)山頂にある。
さすがに、ブダペストの監視のために築かれただけあって、ゲレルトの丘は、ドナウ川を抱くブダペストの街並みが一望のもとに望めることから、今では人気のパノラマポイントとなっている。
今回の我々のパック旅行のコースも、ご多分に漏れず、ゲレルトの丘へは登ったもののブダペストの眺望だけだ。そこで、皆さんが、その景色に見惚れて、記念写真を撮ってる時間(隙?)に駆け足で、ツィタデラを見に行った。
しかし、所詮、僅かな時間しかなく、ツィタデラ(今は、レストランや戦争博物館になっているようだ)の中には入れず、外観を見ただけだ(/。ヽ)。
(2012/05/28訪れて)
ギャラリー
ツィタデラ遠景
ツィタデラは、ブダ城の南にある標高235mの岩山(ゲレルトの丘)山頂にある。丘の先端に聳える「しゅろの葉を掲げた女性像(写真山頂左端)」が、ドナウ川周辺の何処からも見える。この像は、第2次世界大戦の際の1945年に、ドイツから町を開放したソ連軍の慰霊碑として建てられ、当時はその足元の台座にソ連兵の銅像があったそうだが、1989年の東欧革命後の取り除かれたのだそうだ。山腹のやや左には「聖ゲレルト・モニュメント」がある。
ズームアップ
上写真を少しズームアップします。「しゅろの葉を掲げた女性像」、「ツィタデラ」、「「聖ゲレルト・モニュメント」が多少は見やすくなっているでしょうか?
ゲレルトの丘からの眺望
今では人気のパノラマポイントとなっている。ドナウ川両岸のブダ地区とペスト地区の街並みを共に眼下に望める唯一の場所のようだし、確かに、その光景は素晴らしい。左にブダ城(王宮)、右奥に国会議事堂も見える。
ツィタデラへ向かう
皆さんが見晴台で、その景色に見惚れている間(隙?)に、観光バスが到着する時に見えた道を駆け足で向かった。その道は、ツィタデラを廻りこむ道で遠回りだった(;>_<;)。時間が心配で、目の前に「しゅろの葉を掲げた女性像」の後姿を見ながら、皆さんがいる見晴台まで戻った。
反対側へ
見晴台へ戻ると、まだ皆さんは記念撮影を撮ったりしていたので、今度はツィタデラの手前側の坂道を登って行った。どうやら、こちらが入口に近いようだ。城壁には、ハンガリーの(戦争の)歴史写真が何枚も貼り付けられていた。多分、20世紀以降のものばかりだったと思う。そういえば、20世紀はハンガリーは、国土は3分の1になるわ、ナチスに占領されるわ、占領から開放したソ連に再度占領されるわ、まさに受難の世紀ですよね。
ここで断念
写真の右側がレストランの入口で、左の前方が戦争博物館のようだが、家内が呼びに来たので、ここで断念(/。ヽ)。皆さん、バスに戻っているのだそうだ。
聖ゲレルト・モニュメント
ゲレルトという名はイタリア人伝道師の名前からとったものである。ベニスから来た司教・聖ゲレルトは、ハンガリーの国教をキリスト教とした初代国王イシュトヴァーンにより招待されたが、1046年、異教徒の暴徒によって手押し車に張り付けられ、この丘からドナウ川に突き落とされて命を落としてしまったという。丘の中腹に、町に向かって十字架を掲げている聖ゲレルトの像が、1904年、ヤンコヴィッチ・ジュラによって建てられた。
ドナウ川ナイトクルーズにて
ドナウ川ナイトクルーズでもゲレルトの丘の上にライトアップされた「しゅろの葉を掲げた女性像」と「ツィタデラ」が・・・。おぼろ月と像の光景が何とも幻想的だった。